今、私の目の前には湯呑みが置いてある。微かに揺れる水面から顔を上げると、困惑した様子の宗茂さんと目が合った。
何とか店先では泣かずにすんだけど、目を赤くした私に気付いた宗茂さんが店主に声を掛け、店の奥で休ませてもらうことになったのだ。それから私は、下手をしたら声を上げて泣いてしまいそうな気がして口を開けず、そんな私を見たからか宗茂さんも黙ったまま。実に気不味い空気に包まれている。
「………店主に」
久しぶりに、声を聞いた気がして。縫い付けられたように宗茂さんを見詰めたままでいると、自惚れか宗茂さんが安堵したようにも見えた。
「相変わらず、女の気持ちを汲むのが下手だと言われた」
「相変わらず…?」
「ギン千代のことだろうな」
阿国さんに対しては王子様というか、紳士的というか。特に下手だとは感じなかった。ギン千代さんにしても宗茂さんだけが原因だとは思えない。私は殆ど知らないけど、ギン千代さんにも省みるべき点があるはずだ。素直でない人みたいだし。
「俺の勝手に縛り付けず、なまえの暮らしやすい環境に帰してやるのがいいと決意したんだが」
「帰りたい、です。でも」
「複雑だな」
宗茂さんの指が目の下をなぞって、涙を拭われたのだと知る。ああもう、結局泣いてしまった。
「櫛は、いらないです」
「ああ」
「…宗茂さんに必要ないって言われたみたいで、辛いです」
「そんなことはない」
宗茂さんの表情は穏やかだ。ないって、何が。
「…嫌になる。なまえが泣くほど悩んでいることが、嬉しいなんてな」
頬から離れる指先は、これまでで一番優しい気がした。
20111105