奴は私の心臓を握っている

花を手入れする女中に声を掛けると彼女は目を見開く。さて、彼女の私に対する印象は何だろう。

主人はいるかと尋ねると「馬は繋いでおくから一声発して入ってくれ」と返答される。察するに、嫌われてはいないらしい。まあ、出会ったばかりだしね。


「こんにちは」
「こんにちは。――…郭嘉様?」
「はい」


声を出す前に軽く柱を叩く。足音で人が傍に来たことは感じていたに違いないが、彼女は自分がよく知る相手ではないことにも気付いていたらしい。

挨拶に返ってきた同じ言葉に内包されていたのは疑問だ。改めて名を告げずとも、記憶を辿り思い出してもらえたのはありがたい。


「どうかなさったのですか?」
「大層な理由というものはないのですが。…話相手を望んでも?」
「構いません。どうぞお上がりに、ああ、後程茶を用意いたしますから」
「ありがとうございます」

掃除を終えたばかりなのか、それとも外気に晒されているからか。直に触れる木目は想像よりも冷えている。彼女とは少し距離があるけれど、言葉を交わすのに支障はない程度だ。

「よく、私だと」
「耳慣れない足音でしたので。女中でも庭師でもない、商人のものとも違う。…正直、声を聞いてわかったのです。それでも思案は必要でしたが」
「僅かな刻に一度だけ言葉を交わした程度の相手、名を覚えていてくださっただけで十二分ですよ」


見詰めたままそう告げれば彼女の顔が綻ぶ。私が見ていることは気配で感じるのだろう。けれど零れた微笑みは、恥じらいと呼ぶには無邪気、ではないかな。

ふと過ぎったのは、私を見上げて笑った少女だ。あの子は確か飾りを私に差し出した。――飾りは酌み交わしながら語らった女性の髪を彩っていたものだったか――…ともかく、それなりに齢を重ねた女性と呼ぶにはあまりに幼いと(少なくとも私には)思わせる。


「郭嘉様は本当に。女性に人気があるでしょう?」
「私自身は好きですが」
「まあ」
「だからといって、そう構える必要は」
「構えてなどいませんわ」
「少しも?」
「ええ」
「それはそれで、寂しいですね」
「でしたら郭嘉様。私が貴方を喰らおうと狙っている、と申し上げたら?」
「おや、それは――…」
「いやだ。冗談です」


名乗ってはいないと、そうおっしゃった曹操殿。どう説明をすれば伝わるだろうか。曹操殿の足取り、声。言葉にしようと意識するほど、深みに嵌まるように浮かんでこない。


「…何かお考えですか?」
「少しだけ」
「何かしら。郭嘉様をよく知っている女性なら、見抜けるのかも」
「女性とは限りません」
「あら。では――…」
「…私の主人が、あなたを一目見たいと熱望しているのです」
「主人?」

首を傾げ、私の名を辿るそれのように。眉を寄せた表情からも、答えに期待が出来ないことは明白だ。

「以前に訪ねたことがあると言っていたのですが。私の他に、覚えは?」
「そうですね…ああどうしましょう。ごめんなさい、思い出せなくて。いつ頃いらした方?」
「私もそれは」
「郭嘉様とも違うお方」
「ええ」


今の苦笑は、先程までの幼い笑みを疑いたくなる色合いを持つ。彼女が気に病む必要はない。記憶にあれば多少やりやすくなるという打算があっただけで、元より真っさらなところから積み上げるつもりなのだから。


「あ」
「何か?」
「郭嘉様のお名前は伺っているのに、私は名乗っていませんでしたね」
「え?ああはい、確かに」
「なまえと申します」
「…なまえ」


そうして頭を垂れる様に、何故だか強い焦りを抱いた。



20120406

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