トロンプ・ルイユ

痛いとか痛くないとか、そんなことを考える間もなかったように思う。手から剣が滑り落ちたその時、響いたのはルリアとビィの悲痛な叫び。それから、「なまえ!」という幾人かの呼び声だ。

報告はしておくから戻って治療をしろ。そう言ったのはオイゲンで、涙声で名前を繰り返していたのはナルメアだったろうか。
何が何やら、気が付けばシャオが目の前にいて、「今すべきは、団員の皆さんにすべてを任せることですかね」と、深い溜め息と共に吐き出された。優しいはずの声色に圧を感じたのは、呆れと心配をシャオが抱いていたからなのだろう。怪我をしようがお構いなしはやめろと、治療に専念しろと、そういうことに違いない。


「ーー…」


物は持てるか、そう尋ねてきたのは夕食を準備していたローアイン達。無理なら食べさせると力強く宣言したのは、怪我の現場で泣きに泣いていたルリアとナルメアである。丁重に断ったものの片腕での食事は難しく、結局少し手を借りた。
ちょうどこれからお風呂に、と声を掛けてくれたのはスフラマール。上がったら髪を乾かしてとっとと休め、はエルモートの言である。


「んー…」


見つかったら怒られるかもしれない。過ぎったのは、穏やかな風には似つかわしくない負の考え。与えられる言葉はこちらを案じているからこそだというのに、これも、出来ることが制限されているからなのか。


「……」


今は、誰に尋ねても深夜と返されるだろう時間。交代で見回りをしている以上、留まっていては危険だ。ジャミルには「主君の睡眠をお守りする許可を」と懇願もされた。助け船もあり彼はファスティバの手伝いをするに至ったものの、それが終われば扉の前で待機はするだろう。
そうなると当然、部屋にいないと気付かれてしまう。いや、その前にラードゥガから出てきた団員やジャミル本人、優しく助けてくれたファスティバに見つかるか。まるで、心から案じてくれている人を裏切るようではないか。


「……ビィが起きる前に戻るか……」


最善なのはやはり、部屋に戻って眠ること。扉を開けた先に眉を吊り上げたビィがいたら大人しく怒られる、それがいい。そう決意すると心が軽くなったように感じるのだから、不思議なものだ。


「よしっ、ーー……」
「ボンソワール、なまえ。随分と気合が入ってるじゃないか」


爽やかな朝に出会ったと言いたげな、弾んだ声。だがその姿は浮上したはずのなまえの心を空の底に突き落とすには十分である。ああそういえば。名前を呼んだ幾人かではなかったものの、この男も依頼に参加していたのだった。


「……起きてたんだ」
「そのまま返そう。それにキミは、出会ったのがオレであることに感謝をすべきだ。何せオレには、キミを咎める気なんてこれっぽっちもないんだから」


大袈裟な身振りで彼は言う。役者かなにかだったろうか、いや、それはない。眠気に襲われたわけでもないのに思考は随分と投げ遣りだ。
そんななまえの様子を気にすることなく観察するように動く視線。腕へと辿り着くと「ああっ!」とまた大袈裟な声が漏れる。


「オレとしたことが、聞き逃すなんてな」
「……自分の音で満足してるんじゃないの?」
「絶えることのない調べは確かに幸福だ。だが、キミの音をこの耳で、全身で感じることが出来ていたなら!オレは更なる幸福に満たされたろうにーー…実に愚かじゃないか」
「笑ってたような気がしたんだけど、見間違い?」
「笑う?最高の瞬間を逃したってのに……いや待て。確かに、キミが剣を落とし顔を歪めたあの瞬間、オレは笑っていたな……ま、それも一瞬だ。オレが意識を向けた時、既にキミの腕は機能していなかったんだぜ?嘆きこそすれ、笑う理由はどこにもない。キミに許可を得た魔物の破壊よりも上質で、オレ自身の音と同等の価値を持つだろうキミの音を、何に留めることも出来なかったんだからさ」
「…………そ」
「キミにも理解出来ると確信しているんだが、オレは」


長々と浴びせられた言葉だけでもうんざりだというのに、残念だ、と言いたげに肩を竦める姿に嫌悪感まで込み上げる。これを抱いている限りは彼の言う「オレと似たキミ」になることはない。しかしロベリアは、なまえの何に自分自身を感じたのだろうか。


「ーーそれはさておき。怪我の回復を心から祈っているよ、なまえ」
「……ありがとう」
「信用がないな。ああそれから、不自由があれば言うといい。助けになるさ」
「…………」
「なまえ、オレはキミに誓っただろう?キミのためならなんだってするって。あれは嘘なんかじゃない、せめてその言葉だけでも信じてくれたら嬉しいな」
「……何でそこまで」
「誰もが与えられた幸福に生きる権利、その境地に辿り着けたのはキミのお陰だ。なら、相応のものを返すのが礼儀じゃないか」
「ふぅん」


思考回路や好むものは異常と呼んで差し支えないのだが、こうして妙に紳士的なのが薄気味悪い。何も知らぬ人間が見れば好青年と思ってしまう程度には振る舞いが完成されているのだ。
しかも、常人とはかけ離れているが純粋と呼べる精神を持っているようにも感じられて混乱する。本当に何だというのだろう、この男は。


「あと。無事に完治した暁に依頼を受けたなら、是非オレを側に置いてほしい」
「え、何で」
「キミに何かあった際、二度と聞き逃さないためにさ」
「ーー…」
「オレが危害を加えることはないから安心してくれ。傷付けた相手を破壊してやろうと思う程度には、キミに好意を抱いてもいるしな」
「……寝る」
「おや、そうかい?ボンレーヴ、なまえ。ああ、朝食はオレが手伝おうか?」
「いらない」
「ははっ、意固地だなキミは」


笑顔に悪意など微塵もない。
だからと善人なはずもなく、ああ早くビィの寝顔を見たいと。

ただそれだけを、強く思った。


end.

20210829

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