二人の間を埋める文字

泣くことを堪える、泣くことが少ない人間というのは存在するのだろう。だが、泣いたことのない人間、というのは果たして存在するのだろうか。

そんな疑問を口にすると、男はいつも短く「さあな」とだけ答える。同じ問を繰り返す私も大概だけど、何も言わず何度も変わらぬ答えを寄越す男も似たようなものだ。そのあとに決まって何を話していたのか尋ねてくる者達も。必死に聞き耳を立てている子がその中にいることを、私だけでなく男も把握しているのに。

色恋沙汰と面白がっているのか、誰だかわからぬ人間が警戒しているのか。何一つ答えを得ている気はしないけれど、感情を持ち合わせているのかと囁かれる男も泣きはする、ということだけは知っている。


「今日は涼しいね」
「ん?…そうだな」
「……」
「たまにはある、意識が囚われていることも」
「まあ、会話することも少ないしね」


言うと、言葉ではなく乾いた笑いが返ってきた。馬鹿にしているわけではなく、肯定。それがわかるくらいの親交があるという認識は、互いに共通しているはずだ。


「そういえば、体調を崩していたらしいな」
「そう、何年か振りに熱が出て、熱を出したら関節が痛くなるとか、体を起こすのが辛いとか…そうだったなあって思ったよ。あと、無性に寂しくなる」
「回復したようで何よりだ」
「本当に」
「……通りで、ここに居なかったわけだ」
「え、」


ごめん、は違う。謝ってほしいなんて賈充も思ってはいない。そもそも、体調不良であったことを知っているんだから、責めているわけがないのだ。

けれど、私を探していたかのような口振りに驚きか緊張か知れない感情が込み上げる。半端に零れた言葉に、賈充は何を感じたろう。


「人目につかぬ場所など、同類か物好きしか訪れんと思っていたが。逢瀬に使われるものかと驚いた」
「……驚いた?」
「生憎と俺も血の通った人間だからな。――…まあ、人目に晒せぬ関係もありはするか」
「私は賈充を人間だと思ってるよ。…賈充が来て相手も驚いただろうね」
「違いない」


今日はよく喋る。
こうして滅多に人の寄り付かないような場所で、何をするでもなく二人でいることは珍しくない。ただ、会う約束をするわけでも話すために会うわけでもないから、黙ったまま並んでいることが多いのだ。だからこうして賈充から口を開いたり、私の言葉に反応を返すのは不思議な気分で。


「――…何かあった?」
「何も」
「このところ、」
「要不用の判断はしている。ただ、日常と化したつもりでいても心は知らずの内に磨り減るらしい」
「……」
「だから俺はここに足を向け、なまえを待っていたのかもな」
「待ってたの?」
「体調不良と知るまでは、だが」


長い時をかけてはいない。続けてそう言いはしたけれど、私を見る賈充の目に、不意に寂しさだとか不安を感じてしまった。

見える形で私に向けられる感情としてははじめてかもしれないそれを、賈充の所業を憎らしく、忌まわしく思う人々は想像もしないだろう感情を、私は確かに目にしたことがある。


「私が体調を崩したことも、関係あるかも」
「当たり前のことを気に病むな。誰しも調子は悪くなる」
「ごめんとかじゃなくて。賈充の言う、心が磨り減るっていうのと、」


あれは、賈充の父親が亡くなった頃。何も彼に限った話ではないけれど、今よりもずっと幼かった賈充は当たり前のように父の爵位を継ぐこととなった。

私自身、当然私の家も、賈充の一族と特別深い関係にあったわけではない。けれど魏の名臣であった賈逵殿の死というのは、この国で暮らしていれば姿形を変えて耳に入るものなのだ。まだ幼い子が家督を継ぐ、という話も、同じく。


「…その…、」
「どうした?やけに言葉を選ぶ」
「賈充が素直に寂しいって言うからでしょう」
「……珍しくもあるまい」
「口にするのは、――…そんな話をしたいわけでもなくてね」


誰しもに訪れるその何時かを、私は意識したことがなかった。なんと呑気なものだろう。あの日も母に頼まれた買い物を済ませ、そういえば以前見かけた猫は元気だろうかと、両親には立ち寄るなと言い付けられていた路地に入り込み。

見つけたのは猫のような愛らしさとは無縁の、一人の少年であった。衣服で目元を乱暴に拭い、私を睨むようにして去っていった少年。私が泣いたときの仕草と似ていたものだから、きっとあの子は泣いていたのだと思った。そして、心の中で謝ったものだ。

それから暫く。
司馬師様の傍らに、何だか引っ掛かりを覚える男が立っていた。目が合った、と思えど男にこちらを気にした様子はなく、そう滅多に見る容姿でもないだろうと頭を悩ませながら雑務をこなすだけの日々が過ぎる。


そうした中で男と対面したのは、仕事の合間の休憩にと選んだ人気の少ない簡素な庭だった。交代の時間と重なったのか見張りの兵は見当たらない、そもそも見張りがいるのか疑いたくなる程度には放置された草花。司馬に塗り替えられていく最中のその場所につい、人々が意識をして目を逸らしているのではなどと考えたものだ。

誰も見ていないのなら気を抜いても構わない。そう考えて緊張を緩めた時だった、男に声を掛けられたのは。


「言葉を選ぶのは、賈充の表情が私の名前を知りたがった時と同じだから」
「俺自身にそれがわかるわけもないだろう」
「路地で見た時みたいな」
「……そうか。なまえの前に限った話なら構わんが」
「その時も今も、司馬昭様が心配してないから平気じゃない?――…聞かないのは、私と賈充がこうしてるって知らないからかもしれないけど」
「知っていたとしても、子上の俺に対する心配はお前のような感情ではないからな。それはお前に向くものだ」
「司馬昭様が私を?」
「俺に何かをさせられてはいないかと無駄な思考を働かせる。何も言わぬのなら、こちらも存ぜぬと黙するだけだというのにな」


それが苦しいわけではないらしい。けれど、司馬昭様にまでそう思われるのは。賈充にとっては有象無象に過ぎないだろう人々とは違う、司馬昭様。必死になって司馬に尻尾を振ると囁く声に軋む心があるのなら、司馬昭様の言葉にだって。それも含めた日常だというのか、賈充は。


「………賈充、顔触っていい?」
「顔?――…構わんが」


ありがとう。呟いて、目の下をなぞるように指を這わせる。私の言葉に要領を得ないと言いたげだった賈充は、たったそれだけの行動で汲み取ってくれたらしい。必要以上と言いたくなるこの敏さは、彼にとって幸福なのだろうか。生きるという意味に限れば当然、幸福に違いないけれど。


「私と賈充が初めて会ったとき」
「…顔を見た、という認識でいいな?」
「うん。……賈充は泣いてた?」
「そうだな」
「そうだよね。じゃあ、初めて声を掛けて来たときは?」
「――…どうだろうな。近い感情ではあったかもしれん」
「私は」


私は泣きはするし怒りもする。それから笑うし、驚きだって。誰が見てもそうだとわかる表情、尋ねておいて、今は私が泣きそうだ。賈充が心配そう、違う、不安そうだろうか。もっともっと、わかりやすく示せばいいのに。せめて司馬昭様にくらい、私にも、たくさん見せてほしいけど。


「私には泣き顔を見られたからって理由でいい。言葉に出来なくても、何となく苦しいとか嫌だとか、そんな曖昧なものでもいいから。賈充が泣きたかったり寂しいときには、ここにいたいって思う」
「……そうか」
「暫く私に会えないと、私にもわかるくらい表情に出るみたいだし」
「常から隠し立てをしているつもりなどないが」
「そうなの?」
「肉親以外は知らぬだろう姿を見られているからな、今更取り繕う必要もない。でなければお前を探したりもせんだろう」
「いつも以上に素直、今日は。あと、よく喋る」
「暫く会えなかったからな。……感謝している」
「……うん」
「――……素直ついでに」
「ん?」


賈充に添えたままの手。振り払われることなく腕を捕まれたかと思うと、そのまま引き寄せられる。予想していなかった行動に容易く体は、傾いた。


「――…かじゅ、ちょっと、」
「どうにも、想像以上にお前を愛しく思っていたらしい」
「なにそれ、理解が追い付かない…」
「ならば今更になるが、許可を得るとしよう。……口付けても?」
「…………うん」
「くくっ……、何が追い付かないんだか」


悲しそう、は薄れたみたいだ。だからとか、軽くなるならとか、そんな同情染みた想いではなく。


「…私も想像以上に、賈充を愛しく思ってたみたい」
「ああ、それはいいな」


見てはいけない。そう言われたわけでもない泣き顔を見てしまったあの日から、特別という形ではあった賈充のことを。


end.

20201009

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