この涙は初恋の残滓

深い溜め息を吐いて箸から手を離す。行儀悪くカランと音を立てた丼を見て暫く、カウンターテーブルの下に何とか収めたキャリーケースに視線を移し、また溜め息が零れ落ちた。

宮城を離れて一年ちょっと。仕事をしながらの一人暮しというのは思いの外大変で、お帰りの声と家の明かりに誰かの作ったご飯への恋しさは限界を越えていた。色々な都合で一般よりも少々ずれた夏休みはもはや秋に突入しているし、宮城の空気も現在の住まいと比べて寒いくらいだ。

だけど虚しさを感じる原因は気候やずれ込んだ休みではなく、空になったこの丼で。帰省したのは母親のご飯が恋しくなったからだったはず。だというのに、どうして私は牛丼を食べているのだろう。普段とたいして変わらないじゃないか。

取り敢えず連絡を入れておこうか。そう思いノロノロと卓上のスマホに手を伸ばすと、机に人の形をした影が出来た。何だろうと顔を動かせば、目を真ん丸にした、少年が。


「――あ」
「みょうじさん!」


そう通る声で言ったあと、今度はハッとしたように目を丸くする。「なまえさん、です」と間違えたと考えているのがまるわかりの表情で言い直す少年に、思わずスマホを取ろうと開いていた手を握りしめてしまった。

心臓が、苦しい。目の奥からじんわりと、涙が込み上げてくるのもわかる。


「どうしたんスか、東京行ったって」
「…夏休みで、帰ってきてて」
「夏休み?…あ!お久しぶりです」
「…うん、久しぶり」


まるで一音一音を噛み締めるように言葉にしていく。律儀に挨拶をした少年は、次は何を言おうかと考えているらしかった。相変わらずわかりやすくて、相変わらず心臓に悪い。

喜怒哀楽を隠すことがまったく出来ていない、もしくは隠す気のない目も眉も口も、ただただ愛おしいのだ、私には。もう、ずっと前から。


「えーっとね、ちょっとずれたんだよ、夏休み」
「あ、そうなんスね」


そんなことあるのかって顔だ。可愛い。「隣、いいですか?」なんて私に尋ねるところも可愛い。こうやって話してるんだから、断る必要はないのに。


「なまえさん、もう食い終わってますね」
「まあそうだね。飛雄くんは何か用事あったの?」
「ボロボロなったんで、シューズ見に来たんです。…買えねぇんスけど」
「あはは、そっか。高いもんね、そういうの」


体は私に向けたまま、食い入るように机の上にあるメニューを見詰めて唇を尖らせる。わざわざ私を見なくても大丈夫なんだけど。悩みに悩んでいる横顔を眺めそう思うのに、私の体を満たしているのは喜びだ。

飛雄くんは空いた店内でわざわざ私の隣を選び、しかも私と話すことを優先しようとしてくれている。飛雄くんのことだから意識なんてしてないんだろう。何せ昔もそうだったからと、懐かしくて愛おしい気持ちが溢れ出す。

*

私と飛雄くんが出会ったのは、中学生の頃だ。飛雄くんが一年生、私が三年生のとき、委員会で顔を合わせた。とはいえ三年生まで各クラス二人ずつ出しているのだから学年も違う子とそう関わりなんてあるはずもなく。お互いハッキリと顔も認識していたか怪しい中、あれは確かそう、放課後に急に呼び出されたとき。

指定された教室に向かうと早すぎたのかまだ誰もいなくて、教室にも鍵がかかっていた。どうしたものかと考えているとふらりと小さな男の子、飛雄くんがやって来たのだ。何となく見たことがあるなぁと思っていると飛雄くんは扉に手をかけて、開かないそれに眉を寄せ唇を尖らせる。「先生まだなんだね」そう言ってみればどこからどう見ても驚いた顔をした飛雄くんと、目が合って。「……そうですね」「来るの早いね」そんな会話と呼ぶのも微妙なやり取りをしていると、「早く来たら、早く部活に行けると思って」と返されたものだから、我慢が出来なかったのだ。

飛雄くんは私が笑ったこともごめんと謝ったことも不思議だったらしく、扉が開かなかったときとはまた違った風に眉を寄せ唇を尖らせた。それが、私と飛雄くんのきっかけ。ぽつぽつと話す中で彼がバレー部であることと、セッターであることを知った。あと、並々ならぬ情熱をバレーに注いでいることも。
部活に入っていなかった私は時たま体育館を覗きに行って、飛雄くんを捜した。「何してんの?」と疑問をぶつけてきた及川くんに「飛雄くんを見に来た」と告げるとすっごく嫌そうな顔をされたりも、して。

そんな感じで、もう何がきっかけかなんて忘れてしまったけど(寧ろ、そんなものなかったのかも)、気がつけば私は小さな可愛い飛雄くんを好きになっていたのだ。小動物だとか赤ん坊を好きだと思うそれではなく、恋愛対象としての好きを、飛雄くんに抱くようになってしまった。
飛雄くんが向けてくれる真っ直ぐな眼差しも、普通よりも少し大きな声でされる挨拶も、全部が全部、特別だった。愛おしかった。

それで、そう。つい、言ってしまったのだ。

私は飛雄くんが好きなんだと、卒業式の日に息を切らしながら。飛雄くんはバレーが大好きだから、白鳥沢か青葉城西に行ってしまうんだろうと思ったから。チャンスは今日しかないって、そう思って教室を出たら走って飛雄くんを捜した。結果はいいも悪いもなく、ぱちぱちと瞬きをしながら「はい、俺もみょうじさんのこと好きです」と言ってのける飛雄くんに脱力をし、それから拒絶をされなかったことにも安堵して、泣いてしまったのである。

そういう意味じゃないんだけどなぁ。そう思いながら、私が言葉に出来たのは「なら、なまえさんって呼んでほしい」という一言だけ、だった。もう会うことがあるかもわからない後輩にそんなお願いをするなんておかしな話かもしれないけど。素直に頷いて「なまえさん」と言い直してくれた飛雄くんに、私は更に泣いたのだ。

胸が一杯で嬉しくて、幸せで。何度も何度も「なまえさん」と呼んでくれた飛雄くんは、なんならすごく困っていただろうけど。

*

それから数年が経ち、飛雄くんが高校生になる年がやって来た。白鳥沢か青葉城西か。王様と呼ばれるようになった飛雄くんが青葉城西を選択肢に入れるのか疑問ではあったけど、そんなに繊細だろうかとも、思った。だって飛雄くんは言っていたのだ、「及川さんを倒す」と。倒すのであれば同じ学校に行く必要はない。そうなると、白鳥沢。試合に行くくらいは許されるよねなんて誰に禁止されたわけでもないのに言い訳をして、清水さんに渡したいものがあったことを思い出す。ノートのお礼に用意したお菓子。「新作が出てたんだけど、悩んでやめたの」と残念そうに言っていたから、喜んでもらえたらいいんだけど。

清水さんの行方を尋ねると既に体育館に向かったらしく、ノートとスナック菓子片手に体育館を目指す。見慣れた後ろ姿でもジャージ姿はちょっと新鮮で、思わず「清水さん?」と呼ぶと振り返った清水さんは不思議そうな顔をしていた。「ノートありがとう。あとこれ、食べて」言って渡せば「ううん。お菓子ありがとう、わざわざ」と小さく笑うのが可愛い、と思う。ギャップってやつかななんて考えていると、「あ!」という大声が響いたんだ。

清水さんが目線を上げる。つられて私も上げる、と。

季節は初夏。新一年生が入学して3ヶ月になろうかという頃に、私と飛雄くんは再会した。好きだという気持ちはまだ捨ててなんかいない、高校三年。「なまえさん!烏野だったんスか!」と驚く高校一年生の飛雄くんは、記憶の飛雄くんよりも遠目で見た飛雄くんよりもずっとずっとかっこよくなっていて、セーブする間もなく涙が溢れてしまう。

白鳥沢か青葉城西に行ってしまうんだろうと思っていた飛雄くん。烏野に来た、飛雄くん。慌てている飛雄くんとハンカチを差し出してくれた清水さんには申し訳ないけど、飛雄くんがまたそこにいるという事実が、とても嬉しかった。

*

そして、迎えた二度目の卒業式。先輩達に許可を得て全力疾走してきたという飛雄くんに、花をもらった。花と言っても本物ではなく卒業おめでとうの文字が書かれた、胸につけるあれだ。菅原くんに頭を下げて受け取ったそれを私につけたい、というのが飛雄くんの主張で、私がつけているものは菅原くんに渡すらしい。よくわからないけど。
唇を尖らせて、緊張していたのか震える手がつけてくれた、胸の花。飛雄くんから目を逸らさずに見ていた私が「第2ボタンもほしい」とわがままを言うと、飛雄くんは躊躇うことも照れることもなく「はい」と返事をしてボタンを引きちぎったのだ。

意味なんてわかってなかったんだろうな、と思う。私がどんな想いでボタンをねだったのか、胸につけられた花がどれだけ嬉しかったか。それも飛雄くんは知らないまま中学から高校にかけてのこの想いは青春として処理されて、残る愛おしさも淡い思い出になるんだろうと結論を出したんだけど。


「…そっか、飛雄くんも二年生?」
「はい」
「先輩なんだねぇ」
「まぁ…何か、難しいっスね。去年の三年も、今の田中さん達もスゲェんだなって思います」
「そっかぁ…」
「?嬉しそうっスね、なまえさん」
「いや、飛雄くんも立派に先輩やってるんだって思うと、可愛くて」
「可愛い…」


飛雄くんの唇が尖る。飛雄くんも高校生男子だし、やっぱり可愛いと思われるのは嬉しくないのかな。
中学よりも去年よりも豊かになって、柔らかくなった気がする表情。そりゃもうモテるだろうなぁと考えて、少し嫌な気分になった。薄々感じてはいたけど、飛雄くんに対する今現在の愛おしさも、ちゃんと恋愛感情らしい。


「……!そうだ、なまえさん」
「ん?」
「俺があげたっ、いや、あれは菅原さんのなんですけど、あの花、あとボタン!まだ持ってますか!?」
「えっ?」
「田中さんと西谷さんが卒業式にボタン渡すのはロマンだっつってて、そしたら月島はもう捨ててるとか言いやがるからムカつくってか気になる?んなわけあるかって、…なんつーか」


飛雄くんが何を伝えたいのか、より先に。飛雄くんがボタンを渡したことを覚えているという事実が、心臓を叩いた。

ふと、飛雄くんの眉間の皺が消えてすっかり目を丸くしている。「ど、おっ、俺、何かしましたか!?」と腕に触れながら顔を覗き込んでくれている飛雄くんは不安そうな表情だ。何でもない、何でもないってことは、ないんだけど。

静まり返った店内で、私と飛雄くんはどう見えているんだろう。レジで待機している店員さんには会話もすべて聞こえていただろうし、入ってきた人には飛雄くんが私を泣かせたように見えるかもしれない。そうだ。足元のキャリーケースを見つけたら、どんな風に話を広げてくれる人がいるんだろうな。


「私ね、…私。飛雄くんが、好きなの。中学生の頃からずっとずっと、飛雄くんのことが、好きです」
「なまえさん泣いて、」
「連絡も全然してなくて、知らないし、でも今日こうやって会って、やっぱり好きでっ…だから私と、付き合ってください」
「なまえさん、」


ゆらゆら揺れる、飛雄くんの姿と声。腕に触れていた手が頬の涙を何度も拭って、それから「使ってください」とハンカチをあてられる。使ってくださいって、私に拒否権はないじゃないか。


「俺が覚えてるなまえさんは、よく泣いてます」
「…そうかもしれない」
「なまえさん」
「……はい」
「……よろしくお願いします」
「えっ?よろしく?」
「いや、その。付き合うって。…よろしく、お願いします」
「それどういう流れ、…あーもう!…も〜っ……大好きです、飛雄くん」
「はい。ありがとうございます」
「…ありがとうございます。嬉しいです」
「…えっと、はい」


飛雄くんの掌が私の頭を撫でている。単純で馬鹿みたいな話、それだけで随分と心が軽く、なっていた。



end.

20151020
花咲く提出

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