※リョウマ支援Aネタバレ
花は春を知らぬまま。
確か好んで読む恋愛小説の中にそんな一文があった。花は女性、春は恋。己の現状はそれだと得心する一方で、自覚をしているのならそれは知っていることと同義だろう、とも思う。
自然とこぼれ落ちる溜め息。己の行動にハッとしたなまえは伏せていた顔を上げ、抱えた膝はそのまま周囲に意識を向けた。
そんなことをするのは、有体に言ってしまえば追い払った執事が本当に傍にいないかを確認するためだ。「なまえ様がおっしゃるならば」と口にした彼ではあるが、一人になりたいとなまえが最初に告げた際はわかりやすく顔を歪め、「なまえ様の身に何が起ころうと、直ぐ様お救いするのが私の役目です」と承知しようとはしなかった。
なまえとて彼を頼りにしている自覚はあるし、まあ、依存している部分もあると感じている。今日に至るまでそうであったから、まるで突き放すような物言いに納得がいかないというのも理解は出来るのだ。
何よりなまえ自身、同じことを言われては不安になるから。だというのに、実に身勝手ではないか。
「…失礼ですよね、こんな」
しかし主を何よりも想うあの従者は、それ故に主の悲しそうな表情も嫌う。だからこんな風に神経を尖らせずともきっと、そわそわとしながら帰りを待っているに違いない。そう思うと疑ってばかりいる自分が恥ずかしくなり、つい両頬を叩いてしまう。
「――勝手です、私は」
ずっとずっと広い背中、随分と見上げなくてはいけない高い身長、なまえには見えない先を見据えているような鋭い眼差し。それがきょうだいに向けられるとき、胸があたたかく、苦しくなるくらい柔らかくなることを知っている。
ぽっかりと空いたなまえの記憶を埋めるように優しくゆったりと語る声色は、きつく目を閉じなければ心臓が飛び出してしまいそうになる。「お前はどうだ?」と愛しげに緩む表情が暗夜での出来事を耳にする毎どこか悲しげになることにも気づいてしまったし、それを目にした自分自身が痛みを覚えることにも気づいてしまった。
そしてそれが、大切な兄に抱く痛みではないことにも。
「リョウマ、兄さん」
口にして、唇をなぞって。妙に熱っぽいような気になるのは、渦巻いている心情が原因だろうか。
そうしていると、不意に背後に気配を感じる。隠すようではなくなまえに己の存在を知らせるような強い気配。恐怖ではない感情を強烈に与えるこの正体を、なまえはよく知っている。
「…リョウマ兄さん。どうしたんですか?」
「なまえが疲れているようだとアクアがな。ジョーカーも溜め息ばかり吐いていたぞ、苛立たしげに」
「そうでしたか。ジョーカーさんには一人にしてほしいと言ってしまいましたから…気を遣わせてしまっていますね」
唇に触れたままだった指を見たリョウマは、何を思っただろう。普段と変わらぬ表情で――なまえの想いがそう見せるのか、きょうだいの誰に向けるよりも優しい顔で――いる兄に体中を巡るのは、兄への思慕と呼ぶには淀んだものだ。
「歩き疲れたか?」
「大丈夫、ありがとうございます、リョウマ兄さん」
「いや。それならばいい」
白夜のきょうだいの話を聞きたい。そんな一言からはじまった白夜の長兄との僅かな二人だけの時間。重ねる度に膨らんでいったのは、喜びと寂しさと、リョウマに対する憧れで。
幼いヒノカを語る際に細くなる瞳。タクミの小さな我が儘を語りながら零れる晴れやかな笑顔。サクラに告げられた感謝の言葉について、ほんのり頬を染めて語る姿。その中に自分がいなかったことへの寂しさは本物だが、気を抜けば引きずり込まれてしまいそうな感情は、憧れの中でも実兄に募らせるには間違ったものでしかない。
「――なまえ」
「あ、はい」
「疲れていないと言っていたが、手を繋いで戻らないか?」
「えっ?」
「なまえがまだ幼い頃、ヒノカとよくそうしていてな。羨ましいと言って、笑われたことがあったんだ」
「…そうなんですか?」
「お前が嬉しそうに笑うから、俺も幸せだったことを覚えている。…俺達はきょうだいなんだ、何一つ不思議じゃないさ」
目の前に出された手には幼さのかけらなどなく、視線を落とした己の手もすっかり大人のものだ。
手に触れるだけ、おはようと挨拶をするだけ。目が合うだけ、姿を見るだけで鼓動が高鳴って、嬉しくて幸せで泣きそうになる。恋とはそれほど真っ白で眩しいものだと、恋愛小説に書いてあった。
けれどそれはいつも、血の繋がりなどない男女なのだ。実の兄と結ばれる物語になど、出会ったことがない。
「きょうだい…はい、そうですね」
「よし。…ん?なまえ、」
「指輪、嬉しかったので。…似合いますか?」
「…ああ。ヒノカもサクラも、タクミだって。喜ぶ、これを見たら」
「はい」
「勿論、俺だって嬉しい」
「――はい」
こうして握られた手から伝わるぬくもりや力強さが、なまえへの愛情であればいいのにと思う。きょうだいへの、ヒノカやサクラといった妹への愛情とは少し異なる、そんな思慕であればいいのにと。
「しかし、迷子というわけでもないのに手を繋ぐのもおかしな話だな。皆からそう離れてもいない、はぐれる心配などないだろうに」
「でも、楽しいです」
「そうか。…こんな感覚だったかな」
「どうでしょうか」
さらさらと頬を撫でる風から伝わる青葉の薫り。そんな誰もいない草原で騎士と姫が口づけを交わす物語もあった。躊躇う騎士に姫が詰め寄り、二人の間の全ての距離を消し去るように背伸びをして、騎士の襟を引いて。
リョウマに同じことをしたならば、彼はどんな顔をするのだろう。
軽蔑をするだろうか。そして、苦さの中にほのかな甘さを感じるこの時すら、失ってしまうのだろうか。そんなことを考えると、一瞬のうちに体が冷えていく。
「…リョウマ兄さんの手、あたたかいです」
「そうか。なまえの手も、…暗夜のきょうだいともこうして?」
「エリーゼさん、妹とは、よく」
「――そうか」
求める形はあれ、この笑顔やぬくもりまで失うのなら。それならば、永遠に春を知らぬ花でいい。
ただ想うだけ、清らかと呼ぶには滲み淀んでしまっているけれど、それだけで。
end.
20150818
夜会提出。