「お湯、溜めたから」 「いい」 「寝汗かいて気持ち悪いでしょ」 「いらない」 「別に取って食やしないわよ」 「結構です」 「もう、強情な子ね」 ふう、と溜め息を吐き諦めたかなと思わせてからシーツを両手でしっかりと掴み、テーブルクロス引きの要領で一気に引っ張る。 無論、転がり落とす事を目的として。 「う、わっ…!なにすんのよ!!」 「実力行使よ実力行使。我が儘言ってないでちゃっちゃっとお風呂入んなさい」 バスタオルを押し付けられバスルームへと促される。 「ちゃんと肩までゆっくり浸かるのよー?着替えはここに置いとくから」 有無を言わせず放り込まれたバスルームは、この部屋に相応しい広さ。 普段、シャワーだけで済ます身としてはどうも慣れない空間だが、一通り体と髪を洗い終えた後、一応湯舟に浸かる。 ローズマリーの香りが匂い立つお湯は、案外気持ちの良いものですっかり肩まで沈み込んでいた。 「あーあ……やっぱアザになっちゃったかァ…」 丁度肋が折れて治った所の皮膚が青紫色に変色していたが、どうせ一週間もすればそれすらも消えるだろう。 「ま、別に良いけど。っかしやっぱ金持ちの風呂ってのはどいつもこいつもデカイねェ……」 カポンと浴槽から溢れ出した湯が、排水溝へ引き込まれて行く。勿体ないなぁなんて思いながらも敢えてバシャリと勢いよく立ち上がり風呂を出る。 ふんわりとおろしたてのように柔らかなタオルはサッと肌をなぞるだけで、水分を吸収していく。用意された洋服に腕を通せば、ふわりと柑橘系の匂いが鼻を掠める。 またあの匂いだ――――― 「アラ、ベストタイミングね。今作り終わったところよ」 リビングルームに足を踏み入れれば色々な匂いが空腹の腹に流れ込み、思わず頬が緩みかける。 「うわ…美味しそう……」 不意に吐いて出た言葉に自分でも驚く。 「冷蔵庫の掃除がてらだから大したものじゃないけど、夏野菜のラタトューユとサーモンとほうれん草のキッシュよ」 お口に合えば良いんだけど、とそのままテーブルに促され着席。 嫌と言うほどトリュフがかけられた子羊のステーキやら、どでかいムール貝にキャビアを乗せまくった前菜。はたまたエスカルゴやらオマール海老やらそんな高級食材が長いテーブルに並べられていたのなら、間違いなく全部床に叩き落としてさっさとこの部屋を出ていただろう。 でも、確実に彼女の手作りでそれもごく有り触れた家庭料理を嫌味でない自信満々の笑顔で出されたのなら、食べない訳が無かった。 「…いた、だき…ます……」 「どうぞ、召し上がれ。火傷に気をつけて、」 口にほう張れば、程よい塩気が口内に広がり今度こそ破顔。 「やっと笑ったわね」 ふふふ、と心底嬉しそうに笑う正面に座る彼女からは、またほんのりとシトラス系の香りが漂ってきた気がした。 愛って美味しい? 「ねぇ、一つ聞いても良いかしら?勿論、答えたくなかったら無視してくれて構わないわ」 太く逞しいくせに優雅に踊る指先が、グラスの縁を撫でる。 「アナタの名前を聞いても―――――」 「ジュリア」 「えっ、」 「ジュリア。あたしの名前」 自分でも意外だった。 他人に自分の名前をこんなに簡単に言う日が来るなんて。 「ジュリア、貴女らしい名前ね」 (目的地を持たないくせに、道に迷ってグルグル、グル) (野良にしては毛並みは上等、気位高し) (ねぇねぇ猫さん、自由と孤独は違うのよ?) ---------- 2011,07,21 |