貴方の頬を伝う涙を拭う術を知らない
「これは俺達だけの秘密だからな。」
人差し指を口に当て、そう言って微笑んだ彼の顔を俺は一生忘れることはないだろう。
机に並ぶ男鹿の好物たちを目の前にベル坊は椅子に座って足をぶらぶらさせていた。
時計を見るとちょうど八時を指そうとしていた。
「男鹿、おっせーな。今日は早く帰ってくるっつってたのに。」
目の前に座る古市に話しかける。
古市が雑誌をめくる手を止め、時計を見た。
「大方、親父さんたちにでも捕まってるんじゃねえの?ていうか、普通はこんな日にこっち来るとか言わないからな。男鹿がおかしいんだよ。」
「ふーん。」
口ではそんなことを言っている古市だが、ショックを受けているのは見れば分かる。
苦笑いを作ろうとした顔が、ショックを抑えきれていなず変な顔になっている。
古市のそんな表情を見て、未だに帰ってこない親代理の男に悪態をついていると腹の虫が盛大に鳴いた。
「先食べるか。」
冷えてしまった机の上のおかず達を温めるために立ち上がった。
男鹿と古市は高校を卒業後、それぞれ就職と進学という道を選んだ。
遂に腐れ縁も切れるのかと思われたがそんなことはなく、お互いの職場と学校が近いからという理由で二人は一緒に住んでいた。
その後古市も就職し、ようやく離れるかと思われたが古市の職場がこれまた住んでいる場所から近いというので
ずっと一緒に住んでいる。
俺ことベル坊はというと、男鹿と出会ってからずっと人間界にいる。
親父である魔王からも帰ってこいなどとは言われていないし、問題ない。
一度それに関してヒルダが親父に聞いていたが
「好きなようにすればいいんじゃなーい。」
とお得意の能天気さを発揮し、それ以来ヒルダも一緒に人間界にいる。
今日は用事があると言って魔界へ帰っているが、普段はこの四人で暮らしている。
「古市は、しないのか。」
「何がだ?」
「…なんでもねえ。」
答えが分かっていても聞いてしまうのは人の性なのだろうか。
俺は人間ではないから人の性と言うのは間違いなのかもしれないが。
「よし、食べるか。」
目の前に電子レンジで温められたおかず達が並んでいる。
出来立ての温かさとは比べものにならないというのに目の前で冷えていく様を見ているのはなんだか無性に切なかった。
「いただきます。」
「召し上がれ。」
出来立て特有のサクサク感はないけれど、それでも古市の料理はおいしいと思う。
人生の大半を古市の料理を食べて過ごしてきたからかもしれないが。
弾む会話もないまま、食事が進む。
古市の視線はほとんどの間、携帯に向けられていた。
「ごちそう様。」
「もう遅いからさっさと風呂入っちゃえよ。」
「はーい。」
食べ終わった食器達を流しに持っていき、リビングを出てお風呂へ向かう。
服を脱ぎ捨てると未発達な男児の体が鏡に映る。
年齢の割には筋肉が付いていると自負しているが、それでもあの男に敵うわけがない。
俺は一生あの男の背中を見ることしか出来ないのだろうか。
お風呂から上がると唐突に眠気が襲ってきた。
ソファに座ってテレビを見ていたが、どうにも眠気の方が勝る。
動くのがめんどくさくてそのまま横になろうとしたら、目敏く見ていた古市に怒られた。
「ベル坊!寝るならベッド行け!俺じゃお前のこと運べないんだからな!」
「はーい。」
良い子の返事はしてみるが、もうだめらしい。
そのまま誘われるように夢の世界へ旅立った。
目を開けると周囲が薄ぼんやりとしか見えず、焦って起き上がると何かが床に落ちた。
古市が毛布を掛けてくれたらしい。
俺を運べない代わりに毛布を運んできたのか。
時計を見れば、ぼんやりとだが一時くらいになるというのが分かった。
これならまだ寝られる。そう思い、毛布を持ってリビングを出た。
すると男鹿の部屋から明かりが漏れているのが見えた。
薄らと扉が開いている。
中を覗くと、男鹿がベッドに寝ているのが見えた。帰ってきたらしい。
横では古市が床に足をつき、男鹿の手を握っているのが見える。
まるで懺悔でもするかのように、両手で握った男鹿の手を額に当てて呟いた。
「幸せになれよ。」
「男鹿、俺、お前のこと、愛してた。」
小さな声だった。けれど確かに俺の耳には届いた。
扉から顔を離し、壁に背を預ける。
毛布に顔を埋め、誰にも聞こえないように呟いた。
「俺は、古市を、愛してるよ。」
秋の気配が色濃くなって、風が少し冷たくなってきたある日。
寒いのにも関わらず屋上でお昼を食べていた男鹿と古市。
腹いっぱい食べた男鹿は眠くなったのか寝始めた。
少しして寝たのを確認するためか古市が何度か男鹿の名前を呼んだ。
反応がないことを確かめると、古市は男鹿の手を取り両手で握り呟いた。
「俺、男鹿のこと、愛してるぜ。」
男鹿の隣で寝ようとしていた俺は、予想もしていなかった古市の言葉に目をぱちりと開けてしまった。
「あれ、ベル坊起きてたのか。今の聞いちまった?」
「だー。」
あの告白を人に聞かれていたなんて知ったら、もっと焦るのではないかと思ったが古市は落ち着いていた。
「ベル坊。」
名前を呼ばれて返事のつもりで瞬きをしたら、古市が口に人差し指を当ててとても綺麗な笑顔でこう言ったんだ。
「これは俺達だけの秘密だからな。」
冬が間近に迫った明日。
男鹿は結婚する。