大好きだった君へ
『お前はそこにいるだけでいい。』
その言葉が頭の中で鳴り響いている。
小学生のころから見慣れた男鹿の部屋。その部屋の主は今、ベッドの上に横たわっている。ひょんなことから育てることになった赤ん坊―べる坊は心配そうに男鹿の顔を見ている。窓から漏れる月明かりが、男鹿の顔を照らしていた。普段なら不良を一発で黙らせる鋭い目も、今はその瞼の下に隠れていて、血色の良いはずの顔も、血を失いすぎたせいで青白くなっている。
こんなことなら行かなければ良かった―
べる坊の兄である焔王に宣戦布告をされたものの、結局何も起こらないまま日常が過ぎていった。しかしそれが嵐の前の静けさだとは、誰も気づかなかった。
それが起こったのは、三時間ほど前。コンビニへ向かおうと、一人で外を歩いていた時だった。突然、辺りが暗闇に包まれた。先程まであった街灯や月明かりが消えている。何が起こったのか理解出来ず頭の中でパニックを起こしていると、何処からともなく声が聞こえた。
『古市貴之だな。』
太い男の声だった。
『貴様に怨みはないが、焔王坊ちゃまの邪魔となる貴様を殺す。』
その名を聞いて理解した。これは悪魔の仕業だ。とすれば、俺なんかの力じゃ敵わない。男の中でも、力はない方に属されるのがこの俺だ。とにかく時間稼ぎをしようと思った。
「待って下さい!なんで殺されなきゃいけないんですか?!」
とにかく時間を稼ごう。その一心で出た言葉だった。
『何故?そんなことをこれから死ぬ貴様に、言う必要はない。』
この人、いや悪魔か、この悪魔ばっさり言うな。しかしこんなところで引き下がっては智将の名が廃る。普段からよく回る口だ。いくらでも突っ込むところなどある。とにかく男鹿やヒルダさんが来ることを祈って、時間を稼がなければ。
「俺はただの人間ですよ?!悪魔に殺される理由が分かりません!」
『貴様は焔王坊ちゃまにとって邪魔な存在だからだ。他に理由などない。』
つまりあれか、ラミアのことで俺が殺されなきゃいけないわけね。
「それおかしくないですか?!俺は魔王の育ての親でもないんですよ?!」
『やかましい。貴様はただ焔王坊ちゃまのために死ねばいいのだ。』
そう声が聞こえた途端、暗闇の中からうごめく黒い物体が見えた。夜目が聞くようになったから、少しだけ見えたがはっきりとは見えない。けどあれはきっと、ヒルダさん達が使ってた、悪魔のあれだろう。名前は分からない。しかし確実に近づいてきている。やばい。俺、絶体絶命。男鹿早く助けに来い!
そう念じると、暗闇に一筋の光が入り、まるでガラスが割れるように今まで俺を取り囲んでいた暗闇が崩れていった。
俺の思いが伝わったのかは定かではないが、そこにはべる坊を背中に乗せた男鹿と仕込み刀を携えたヒルダさんがいた。
「古市じゃねぇか。何してんだこんなところで。」
男鹿はまるで何事も無かったかのように話し掛けてきた。こいつはさっきの状況が分かっていないのか。
「何してんだ、じゃねぇよ!今俺は、悪魔に殺されそうだったんだよ!」
自分で言ってゾッとする。間一髪で来てくれたから良かったものの、もし来ていなかったら俺はもうこの世にいなかっただろう。
そう思って、今ここに自分がいるのを確かめるように腕を掻き抱いた。
「安心しろ古市。お前は俺が守ってやっから。」
俺が恐怖したのをを感じとったのか、男鹿が俺の頭をぽんと叩いた。その手が、いやに心地よかった。
「お前はそこにいるだけでいい。」
結果は、一応俺達の勝利となった。しかし悪魔を殺したわけじゃないし俺達の損失もでかい。完璧なる勝利とは言い難い。しかしあの状況から考えたら、十分な結果だった。
男鹿もヒルダさんも満身創痍で、俺を殺しに来た悪魔も既に打てる手は打ちきった。お互い最後の一撃。しかしそこで悪魔が狙ったのは男鹿ではなく俺だった。もともと、悪魔は俺を殺しに来たのだから当たり前なのだが、すっかり蚊帳の外となっていた俺は避けることが出来なかった。せめてもの足掻きで、腕を顔の前に上げて目を閉じたが、一向に衝撃は来ない。恐る恐る目を開けた俺の目の前には―
血だらけになった男鹿の姿があった。
「男鹿!」
『今回はこれくらいで止めておいてやるが、次は殺すぞ。覚悟しておけ、古市貴之。』
そう言葉を残して、悪魔は去っていった。
そして今。死にかけた男鹿をアランドロンで男鹿の家まで運び、フォルカス先生を呼び治療をしてもらい今に至る。病院に行かなかったのは、悪魔のことなど説明出来るはずもないし、悪魔と戦ったので魔力だなんだと言ったものが関係しているかららしい。急に呼んでしまったフォルカス先生は、患者がいると言って、治療を終えるとすぐに魔界へと帰っていった。アランドロンはいつの間にかいなくなっていた。男鹿と比べれば軽傷なヒルダさんは男鹿の傍から離れようとしない俺を気遣ってか、静かに部屋から出ていってくれた。
今男鹿の部屋にいるのは、俺とべる坊と死んだように眠る男鹿だけだ。
こんなことになるならコンビニなど行かなければ良かった。後悔しても遅い。頬を熱いものが流れていく。
「…男鹿。」
そもそも、俺がここにいることが間違っていたんだ。悪魔との戦いは、これまでの不良達とは格も次元も違う。ただの一般人の俺が、こんなところまでついてきてはいけなかったんだ。いくら男鹿が強くたって、今までとは違う。分かっていたはずなのに、離れられなかった。いや、離れたくなかったんだ。
そんな俺のわがままで、男鹿にこんなひどい怪我を負わせてしまった。いい加減、行動に移さなきゃいけない。魔王の親と一般人は違う。
俺達は一緒にいてはいけない。
「…男鹿、さよならだ。」
いつもは温かいが今は少し冷えている男鹿の手を握って、そっと呟く。この手を放したら終わりだ。
「いつも守ってもらってばっかでごめん。これからは、俺のことは気にしなくていいから、好きなようにやれよ。」
べる坊が不思議な顔をしてこちらを見ている。
「男鹿、大好きだった。」
手を握ったまま男鹿の唇に俺の唇を重ね、唇を離すのと同時に男鹿の手を放す。
一歩分だけベッドから離れて、今だ目を覚ます気配のない男鹿に、最後の言葉を言う。
「じゃあな。」
背を向けて、男鹿の部屋を出る。と、そこには腕や足に包帯を巻いたヒルダさんが立っていた。
「貴様はそれでいいのか?」
「…しょうがないじゃないですか。俺にはもうどうしようもないんです。」
まだ何か言いたげなヒルダさんを置いて、足早に男鹿の家を出る。
だってもう俺は男鹿の隣には立っていられない。男鹿があんなになってしまったのも、いつもは毅然としたヒルダさんが少しだけ弱くなっているのも、全て俺のせいなんだ。
ここにいられる権利なんて、俺はもう持っていない。
いつか来る別れが今来ただけの話だ。
俺には男鹿との思い出があるから大丈夫。
それだけあれば生きていける。
大好きだった男鹿へ。
今までありがとう。
さようなら。
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切ない系になると、どうしても古市から男鹿を離してしまう傾向にある私のおがふる。本当は拍手お礼文書くつもりだったのに、切ない系になったので止めました。そして無駄に長い…。もっとコンパクトな文にしたい…。