3.

 誰かとものを食べたり飲んだりする時、食器からは絶対に目を離さないのだと臨也は言った。混入される恐れのあるものは毒物に限らない、自白剤を含まされて意に染まないことを喋らされたり、睡眠薬を盛られて拉致される可能性もある。だから臨也は薬物についての知識を深め、それらに少しずつ体を慣らしてきた。出されたものを素直に味わうふりをして吐き出したり、飲み込まない術も身につけた。

「君がしつこく俺の部屋に入りたがった時から、おかしい、とは思ってた。普段のシズちゃんは怒らせてしまえばすぐに我を忘れて暴れてくれるのに」

 そうだ。臨也の部屋に入ったのは昨夜が初めてだった。それまでは、彼のマンションの下まで来ても何だかんだで喧嘩が始まって、部屋の中に足を踏み入れたことはなかった。

「騙されてくれないから、これはもしかしたら、部屋の中にどうしても入らなきゃいけない用事があるのかもしれないと思った。俺を殺す新しい手段でも思いついたのかなと思ったから、君の挙動にはすごく気をつけてたよ」

 それなのに部屋に入った君はやけに大人しかったから試しにワイングラスを出してみたのさ、と臨也は言う。そしてわざと一度キッチンに戻り、グラスを置き去りにしたら、案の定君は俺の分のグラスにちっぽけな袋から粉を注いだね。だから俺はグラスを思い切り煽るふりをして、ほんの少し舌先で味見をしてみたんだよ。

「入っていたのは、毒薬でも、自白剤でも、それどころか睡眠薬ですらなかった」

 舌先で舐めただけのはずなのに全身が熱くなり、一瞬グラスを取り落としそうになった。だがそれは毒物のもたらす熱さとも、自白剤のもたらす脳の芯がくらむような閃光とも、ましてや睡眠薬のもたらす人工物の甘ったるい香りのする安らぎとも違っていた。

「間違った薬を盛ったのか、とも思ったよ。こういう悪趣味なことをたくらむのはどうせ新羅だろうから、わざと違う薬をシズちゃんに渡して面白がってるのか、とかね」

 だが、そうではなかった。
 あのとき静雄を射抜いた鋭く赤い目を思う。静雄の瞳に隠された惨めな「女」の欲望を、彼は明確に見抜いたのだ。そして静雄がされたがっていることを理解し、その通りに振舞った。数多くの女にするのと同じように、あるいはそれ以上にことさら酷く、静雄の体を弄んでみせた。無駄だと、静雄の望みは所詮空論なのだと、目の前に冷酷に突きつけてみせた。

「・・・な、んで」

 掠れた声を絞り出す。こうなることが解っていて触れてきた彼はひどい。手酷く拒絶してくれた方がまだましだった、嘲笑い遠ざけてくれていれば、これほど思い知ることはなかった。叶わない望みを追い求めるのと、望みを絶望することは違う。きっともう立ち上がれない、彼を思い浮かべるだけで苦しいと、それでもどこにも逃げる場所がないと絶望することは。彼とともにあった過去のすべてが静雄を作りその血肉として生きている。自分自身から逃れられはしない。

 愛している、だから彼の愛を向けてほしい、それだけの単純な、原始的な願いだった。だが示された彼の「愛」を前にして、静雄は絶望することしかできなかった。それでは満たされない、静雄がほしいのはもっと別の、たった一人に向けられるべき激情だと、臨也は思い知らせたのだ。
 だから静雄にはもう何もできない。凍えるような雨の中、道化のように突っ立って、彼の審判を待つことしか。

「シズちゃん」

 白い腕が手招きをする。招かれるままに歩み寄ると、いつもより高いところにある顔がよく見えた。体温の低い掌が静雄の頬をなぞり、濡れたまなじりと額を拭う。細い指は尖った顎を掴み、自分の方へ引き寄せた。
 どうして、と眼を見開く間もなく、ゆっくりと唇を重ねられる。こういうときだけ優しい仕草で濡れた金髪に指を差し入れ、つたないキスは深くなった。彼の手からは傘が滑り落ち、美しい模様が無残に泥にまみれて歩道橋の下まで転がっていくのが見えた。空いた左手の指は静雄の顔の輪郭を確かめるように一つ一つなぞり、顎を支える。
 儀礼的、と呼ぶにはあまりに長いキスが終わるころには、雫一つ跳ねていなかった彼の服は無残にぐっしょりと濡れ、艶やかな黒髪は静雄の金髪のようにくったりと垂れていた。
 近すぎる距離で見つめられて、名前が聞きたい、と思う。まるでその心を読んだかのように、臨也は不確かな声で「シズちゃん」と繰り返した。

 君は、俺に、どうしてほしいの。

 答える義務はないと心は拒んだが、静雄の唇はその意思を裏切った。
「・・・さわってほしい」
 昨日のように乱暴にではなく、あらゆる人間たちと同じようにでもなく、静雄だけを見てその体に触れてほしい。ただ犯すだけではなく、さっきのようなキスがほしい。例え嘘でも構わないから、優しくそばにいてほしい。

「俺を独り占めしたいの」
「・・・ああ」
「他の女の子と、いっしょにしてほしくないんでしょ」
「・・・たぶん」

 諦めたような声音に、臨也は小さく吐息をついた。
「シズちゃん、こっち向いて」
 言われるままに彼を見つめると、抱き寄せられた。Vネックからのぞく胸元の鎖骨と素肌が鼻頭と頬に触れる。雨に濡れてすっかり冷えたはずの首筋は何故か仄かに温かい。

「馬鹿なシズちゃん」

 罵り言葉のはずのそれは、どこか甘く優しく響く。シズちゃんを人間扱いできるはずないでしょ、と臨也は言った。
 君はどうしようもなく馬鹿で愚かな怪物で、たった一人間違えて人間に生まれちゃった化け物なんだよ。俺が見つけた、俺のためだけの化け物なんだ。全ての人間に俺は平等な愛を注ぐよ。でも君は人間じゃない、シズちゃん。人間扱いすることなんてできるわけないだろ。

 それなのに君があんなことをしてまで俺に「愛」してって叫ぶから、薬を飲んだふりをしてみせた。顔を見てシズちゃんだって思い出したら、君が望む「愛」を注げないから、後ろを向かせて他の女の子を思い描いた。俺に薬を盛ってまで抱いてほしがった女の子たちのこと。俺にぼろぼろにされたがった馬鹿な女の子たちのこと。
 でも君はどうしようもない馬鹿だから、どうせ後で後悔するくせに気づきもしない。気づきもしないで行動だけ起こして、打ちのめされてだめになるくらいなら、ねえ、

「・・・臨也」

 彼の濡れた両腕の中で、与えられる言葉の意味がゆっくりと沁みてゆく。信じられないような思いで、静雄は声をつまらせた。
「い、ざや」
 馬鹿みたいに何度も彼の名前を呼ぶ。優しい愛撫と暖かな彼の首筋の体温にすがるようにして、静雄は恐る恐る唇を開いた。重ねられる舌がするりと歯と歯の間に入り込み、口内を舐め取ってゆく。繰り返されるキスの温度に溺れながら、静雄はいつしか泣いていた。意思とは無関係に流れる涙の筋を、冷え切った臨也の舌が舐めとってゆく。

 これは恋だ、と臨也は言った。愛よりもずっと不確かで頼りないそれは、時として思いもかけない激しさで人を燃やし尽くすのだと。ああきっとそれが臨也との間に横たわるすべてだと、降り注ぐ口づけと涙に溺れながら静雄は思った。

 灰色の雲間からは太陽がのぞき、降り続いていた雨はようやく終わりを迎える。池袋の街並に人が再び溢れるまでの短い間だけでも、このままどこにも行かずにずっと抱きしめていてほしかった。


End.

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