2.


 池袋の町には雨が降っていた。少しずつ空気を湿らせ体温を奪ういやらしい雨だ。日曜の午後、気だるい空気は雨に飲み込まれ、いつもは人にまみれた通りには傘をさした数組の男女がまばらに歩くだけ。
 一歩一歩アスファルトを踏むとぽちゃんと水の音がした。二束三文で買った安物の靴には隅から隅まで雨水が染み込んで重い。私服らしい私服など持っていない静雄はたとえ休日だろうとバーテン服を着ているのが常で、それは昨日も同じことだった。


 土曜日の夜遅く、ようやくノルマ分の取立てを終え、終電ぎりぎりの山の手を捕まえ、四駅分の時間を火のつけられない煙草を噛んでじっと待つ。人もまばらな電車の中で、静雄の異様な装いと長身と金髪はひどく目立った。20分弱の僅かな時間を遠巻きにされながらただ耐えて辿りついた新宿駅はずいぶんと静かだった。そういえばこうして深夜にここに来るのは久しぶりだと思い出す。改札口を通り抜け、西口に出る。閑静なオフィス街を通り抜け、立ち並ぶ無機質なマンションの中から一つ見知った建物を選び出し、その前に立った。部屋に明かりはついていない。男はまだここに、彼の家には帰ってきていないのだ。
 静雄は煙草を取り出した。今度はそれに火をつけることができる。思う存分ニコチンを吸い込んで時間を紛らわすことができる。だから何時間でも構わない、翌日の朝になったとしてもずっとここに立っていると決めた。今更後戻りすることも、決意を覆すこともしない。


 ほんの数時間前の記憶がすでにセピア色の写真のようにあいまいに薄らいでいるのは、それがあまりに非現実的で輪郭の不確かな出来事だったからだろうか。ぐんにゃりと歪むような色あせた寝室の、巨大なベッドのシーツが頬に掠れた感触だけが鮮明に残っている。静雄の部屋の片隅にそっけなく放り出されたぼろぼろのパイプベッドとは比べ物にならない柔らかさで、それは四つん這いの静雄の体を支えた。男は後ろから静雄の頭をシーツに押さえつけ、くるしいと言った静雄に構いもせず荒い息を重ねながら下肢の服を剥ぎ取った。仕草はめちゃくちゃに乱暴なくせに、覆いかぶさった耳元に囁かれた名前だけはどうしてかひどく、ひどく優しく聞こえて、静雄はどうしようもなくなってしまった。

「シズちゃん」

 幻聴かと一瞬思った声は、しかし現実の世界から聞こえてきた。右の耳を殴りつけられたような衝撃を覚えて振り返ると、あの男はそこにいた。細身の体にはいくらか大きすぎるくらいに映る傘(恐らく高名なブランドのものだ)を差して、アスファルトの水滴を跳ね返す高価な革の靴を履いて、一滴も雨に濡れないまま、静雄の前に立っていた。

 あいまいな記憶の、不確かに揺らぐ夢の中から一人だけ、平然と抜け出して男はそこに居た。いつだって彼はたやすく静雄を踏みにじるのだ、静雄があんな行動に出た理由も、その本心も分かっているくせにこうして追いかけてくる。ひどい男だ。途方もなくひどいこの外道に、静雄は、どうしようもなく、こいを、していた。


・・・


 真夜中をとうに過ぎた頃に帰ってきた臨也を脅して無理やりマンションに押し入るのも、彼が出してきたニ脚のワイングラスの片方に渡された薬を注ぐのも簡単なことだった。そういえば何だかんだ臨也の部屋の中にまで入ったのは初めてのことになる。

 一口ワインを口にしただけで、彼は薬を盛られたことに気づいた。驚愕のまなざしで静雄を見て、喉を押さえる。即効性だと新羅が言っていたとおり、それは一瞬で効き目を現した。臨也は自我を保つためなのか血が滲みそうなほど強く拳を握って、荒い呼吸の下から苦しげに言葉を搾り出す。

 これ、催淫剤でしょ。

 問いかけの形を取った確認に、静雄は沈黙で答えた。臨也は薄く笑って、まさかこんなものをシズちゃんに盛られるとはね、と喘いだ。女の子に盛られたことなら何度もあるんだけど。特徴的な赤い目は激しい興奮に濡れて、その鋭さに突かれた心がほんの僅かに疼く。彼と寝たのだろう無数の女たちの影、彼に触れてもらうためだけに身を削ったのだろう無数の。

 折原臨也の、「女」になりたかった。暴かれて晒されて傷つけられて、それで構わないとさえ思った。きっと彼に触れられたがった女たちも同じだ。特別を得られないのなら使い捨てられたい、数ある人間たちの中から拾い上げてひとときの玩具にしてほしいと。結局静雄は臨也の望む「化け物」にはなれなかった。誰より特別な位置にいることを自ら捨ててでも、焦がれる心を見抜かれたかった、彼の、「人間」になりたかった。明確な憎しみを抱かれ続けるくらいなら、敵意と憎悪を投げつけられるだけなら、彼の特別な「化け物」でいるより、ほんの僅かでも他の人に与えるような愛を向けてほしかったのだ。

 利用されても構わない。ずたずたにされて、傷つけられて、玩具にしてほしかった。彼が笑いながら握り潰す哀れな人間たちの一人に加えてほしかったのだ。
 それだけの、はずだった。


 夜明け前に抜け出した彼のマンションからは遠い池袋の街中で、歩道橋の数段上に佇む臨也は、いつもと変わらない端正な様でそこに居た。傘に隠れたその顔を見上げることに違和感を覚えて、そういえばいつもと身長差が逆だと思い至る。項垂れて惨めに濡れた金髪の上には、ぬかるむ東京の空がのぞいていた。灰色に淀んだ雲はただただ寒々しく体温を奪ってゆく。

「シズちゃん」

 昨日あれほど酷薄に静雄をいたぶった男は、どこまでも冷たいまなざしを頭上から突き刺してくる。そのくせ声だけは、静雄を呼ぶ声だけは甘く優しいのだから、残酷だ。

「・・・いざや」

 口にのぼせた彼の名前は、我ながら頼りなく弱々しく響いた。彼は答えない。答えないまままなざしだけが交差した。赤い輝きに耐えられず視線を落とす。

 臨也は静雄をめちゃくちゃに犯した。静雄は彼のどんな要求にも従順に従った。四つん這いになれと言われればその通りにし、動くなと言われれば無理な体勢のまま身じろぎもしなかった。狭すぎて入らないと言われたから、うつ伏せの状態のまま自分の指を後ろに伸ばした。無理やり二本突き入れ強引に広げて、その上から彼が思いやりも何もない乱暴さで押し入ってきても、ただ懸命に声を噛み殺し犬のように喘いだ。

 多少怪我をしたところですぐに治ってしまうと知っているからか、臨也はことさら静雄をひどく扱った。拷問によく似た痛めつけるためだけの愛撫、彼の顔が見たくて振り向こうとしたときには、窒息しそうな勢いでシーツに頭を押さえつけられた。ほんの少し首に力を入れればすぐに呼吸ができると知っていて静雄は動かなかった。柔らかい布の感触が口と鼻を塞ぎ、目の前が真っ暗になる。視界には赤い点が散り脳は酸素が足りないと訴えた。いっそこのまま息ができなければ、と閃いた思考に嘘はつけない。

 まるで女のようだ、と考え、思い当たる。明確なやりとり。四つん這いにさせて後ろから犯すのは女ではない体を思いださないためなのではないかと。彼が必要なのは静雄の「穴」だけであり、男の顔や筋張った体は邪魔でしかないのだと。それでもいいと割り切っていたはずなのに震える唇が忌々しかった。

 そのくせ彼の手は指は静雄を傷つけるそのためだけに動いて、理解が出来るからこそ苦しかった。彼にとってはセックスすら相手を暴く手段でしかないのだ。喘ぐ吐息の隙間から、苦しむ快感の挟間から、隠された奥の声を聞き取るためだけの手段。これまで彼に抱かれてきた女たちもこういう思いでいたのだろうか。

 それでも構わないなんて嘘だ。こうして触れれば、こんな風に抱き合ってしまえば、優しくされたいと心は贅沢を叫んでしまう。一つ手に入れればその上がほしくなる、浅ましい自分には嘘がつけない。
 シズちゃん、甘くまとわりつく声は容赦なく静雄を突き放す。

「ねえシズちゃん、君はずっと、俺にああされたかったの?」

 解ってるくせに聞くな、そう叫びたい心を懸命に抑える。どうせ解ってるくせに、静雄がどうしてあんなことをしたか、そして今どんな気持ちでいるのか、どうせ全部彼は知っている。次に浴びせられるだろう言葉もありありと想像できた。

 馬鹿なシズちゃん。俺は絶対に誰かのものにはならない、誰のものにもならない。君がしようとしたこと、欲しがったものは言い訳で塗り固められたただの自己満足だ。君は世界の誰より大嘘つきな馬鹿だよ、と。
 解りきった弾劾が降ってくるのを待った。ただ、待った。

 そしてそれはいつまでも訪れず、代わりに静雄の耳を打ったのは、罵るでも断罪するでもなくただ淡々と乾いた、彼のあの声だった。

「ねえ、シズちゃん。俺にわからないとでも思ったの」
 むしろその言葉の意味こそが静雄にはまるでわからなかった。臨也は時々ひどくあいまいな言葉を用いて伝えるべきことを伝えない。きっとそれは彼にとっての身を守る手段であり、習い性なのだ。

「・・・何、言ってんだ」
「俺の仕事、知らないわけじゃないでしょ」

 あたりまえだ、と轟然と答えることは、今このときには相応しくない気がした。彼は別の答えを求めている。細めた目の裏側の、静雄には読み取れない心の中で。
 粛々と頷くと、彼は小さく笑って、言った。

「それなら、わかるでしょ。
 命を狙われることも、食べ物や飲み物に薬を入れられることも、俺にとっては日常茶飯事なんだ、って」

 背筋を冷たいものが駆け上がり、そして一気に駆け下りていった。

「・・・て、めえ」
「あの時、シズちゃんがグラスに何か入れたこと、俺は気がついてたんだよ」

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