2012-03-23
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吉野は、バスルームからひょっこり顔を出して玄関の方に目をやる。
さっきは気付かなかったが、玄関には羽鳥の皮靴があり、壁に立てかけるように鞄と、その上にジャケットも…。
(バカトリ、帰ってきたか!…ったく…)
トイレの前で足を止める。
完全に閉まっていない扉。
水の流れる音。
気になって隙間から覗くと、見なれた背中。
…が、いつもより低い位置に…。
「トリ!!」
それは人が嘔吐する体勢。
「おい、トリ!」
吉野は扉を開けると、羽鳥の背中に手を当てた。
シャツの上からもじんわり感じる湿った感触。
狭い室内に仄かに漂う酸臭と、その中に微かに感じる酒の匂い。
「トリ?」
「ぁぁ…」
吉野に背を向けたまま、羽鳥は力なく返事した。
横の壁にダラリと肩を着けて、首は項垂れる。
吉野からその顔色は伺えないが、床に落ちた手を見る限り、良好とは言えないようだ。
「トリ?」
「…すまん…水…、くれ」
羽鳥にそう言われ、慌ててキッチンまで走る。
冷蔵庫の中からミネラルウォーターと取り出すと、並々とコップに注ぐ。
ドンっ、とボトルをシンクに置くと、一呼吸置いて、コップを握り、羽鳥の元に戻った。
「トリ、水」
力なく上げた手にコップを握らせる。
ひんやりした羽鳥の手。
いつもの感触ではない。
血の気が引いたような、芯に熱がない感じに、吉野はゾッとした。
『顔をこっちに向けないのは見られたくないからかな?』と思った吉野は、自分の首に掛けた使いさしのタオルを何回か折り畳み、羽鳥の肩に乗せた。
「俺、廊下に居るから」
「……ありがと」
弱く息をする様に礼を言った羽鳥は、肩に当てられた吉野の手をポンポンと二回叩いた。
何分経ったか分からないが、羽鳥は出てこない。
水が流れる音が何度か聞こえたし、咳き込んだ声も聞こえたから、倒れているという感じはない。
ただ、記憶する羽鳥との時間の中で、最も弱っていることには違いない。
基本、羽鳥はザル、いや、枠だ。
簡単に酔ったりはしないし、その様子が面白いと上司に呑まされたりするが、こうして、体が拒絶する事はほぼ無い。
が、羽鳥も超人ではない。
睡眠や食事をまともに取っていない状態で飲酒すれば、こうなることだってあるだろう。
(なんだよ、ドコ行ってたんだよ…。
なにしてんだよ…、吐くまで…吐くまでナニやってんだよ…、トリ…)
吉野は自分の中にあるモヤモヤした気持ちを抱え込むように、廊下にペタリと座り込んだ。
しばらくして、トイレの扉が開いた。
入口に凭れかかるように立った羽鳥は、目下の吉野に「すまん」と一言礼を言うと、壁伝いにリビングとは逆の玄関に向かって歩を進めた。
「おい、トリ」
「すまん、邪魔したな…」
「っ、お前…」
重そうに身体を引きずりながら、羽鳥は足元にあったカバンとジャケットを拾い上げようと手を伸ばした。
が、その手は阻まれ、胸のあたりには暖かな体温が…。
熱源なんて確認しなくてもわかる。
ココに居るのは羽鳥と吉野だけ。
抱きつかれているのに抱きしめられているような感覚。
さっきまでの悪寒がどんどんなくなって行くような、そんな感じがして、羽鳥は壁に背を任せてその場にズルズルとしゃがんだ。
急に体制を変えた羽鳥と一緒に落下した吉野が「んだよ、いきなり」と、抗議する間もなく、羽鳥の弱い声が頭上から落ちてきた。
「ごめん」
そうポツリと言った羽鳥の声。
さっきの芯の冷えた体温から徐々に戻る羽鳥の温度。
何度も「ごめん」と言いながら、吉野を抱きしめる腕。
(つか、なんだよこれ!
トリを、トリを誰がこんなにしたんだよ…マヂ、ムカつく…。
トリは…トリは…)
その胸のあたりから甘い香りを感じて、身じろいだ吉野は、羽鳥の腕から抜け出し、反対側の壁に背に当てた。
対面の羽鳥に目をやると、抱きしめる対象がなくなった腕をダラリと床に投げ出し、大きくため息を吐く。
「どうせ、また、一之瀬絵梨佳だろ?」
「…」
羽鳥を見ながら、そう言うと、疲れた顔のまま頷いた。
「わかってたから…」
「え?…」
「昨日、電話掛ってきたろ?
ドアの向こうで…アレ、聞こえてた…」
「そう、か…」
暫しの無言。
「…俺、かえ 」
「今日、仕事は?」
「えっ…」
「あるの?ないの?」
「…な、い…」
「明日は?」
「…昼に、…受け取りがある…」
「なら、今日は帰るな。
明日はココから行け。
次、『帰る』って言ったら、別れるからな」
「っ…吉野…?」
いつもの吉野なら、怒って『帰れ』と言うのに、今日の吉野はそうではなかった。
その上、「別れる」と言われたら、手も足も出ない。
吉野の目は真剣で、その表情はドコか肝が据わっていて『茶化すような答え方をしてはいけない』と羽鳥は思った。
「飯は?」
「…いらない」
「風呂は?」
「…いらない」
「いつから寝てない?」
「っ…」
「ったく…。
とりあえず、こっち来い」
吉野は、羽鳥のジャケットと鞄を拾い上げると、リビングへ向かって歩き始めた。
その背中をぼんやり見ていた羽鳥は、重い腰を上げ、覚束ない足取りで後を追った。