世界で一番熱いモノB | ナノ


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「申し訳ないですが、終わったら教えてもらえますか?」

 羽鳥は受付にそう申し出ると、長椅子に腰をかけた。
 大きくため息をつき、姿勢正しい背を丸め、項垂(うなだ)れる。

「29歳にもなって…まったく…」

 何度この言葉を吐いただろう…。
 一年ごとに歳を現す数字は、大きくなるが、その中身の成長は、大して見られないというのは、いかがなものなのだろうか…と、もう一つため息を吐く。

 ココは、羽鳥の家でも、吉野の家でも、会社でもない…。
 吉野が世界一嫌いな場所…“病院”である。

 とにかく、吉野千秋という男は、消毒液の匂いのする場所が嫌いだ。
 の割に、おっちょこちょいで良く怪我をするし、無茶をして風邪をひく。
 その度に、羽鳥は嫌だと駄々を捏ねる吉野の手を引っ張って、どうにかして医者の前に座らせる。

 病院の中でも、特に嫌いなのは歯科医院だ。
 そして、今、羽鳥と吉野がいるのが、何を隠そう、その歯科医院なのである。

 歯科医院と言えば、こんな話がある。
 高校時代、羽鳥は吉野を施術台に載せ「あとは大丈夫だろう」と帰宅したのだが、数分もしない内に、吉野が家に入っていく姿を発見。
 あまりに短い診療時間を怪しいと思って問い詰めると、治療中に「トイレに行きたい」と言って、そのまま脱走…。
 その後、母・頼子と羽鳥が吉野を診察台に磔(はりつけ)にして、2人揃って足元で仁王立ちしていたというのは、今でも語り継がれる吉野伝説である。

 さぁ、皆さま、きっとお忘れだろうが、思い出して頂きたい、冒頭の子供じみた攻防を…。
 あれが行われたのが、この歯科医院の真ん前。
 無論、街のど真ん中である。

 三十路手前の男が二人『行け』『ヤダ』と言い争っている姿はシュール以外の何物でもない。
 巻き込まれる羽鳥は、不運極まりない…。

 そして、29歳の男が、歯医者から脱走するとは思えないが、念には念を…と、羽鳥は待合室で待つ事にした。

 羽鳥は、急用が入らない事を祈りつつ、鞄からモバイルPCを取り出し、電源を入れる。
 この小さな箱があれば、どこでも仕事ができる…。
 言いかえれば、どこに居ても仕事をしてしまう…。
 世知辛い世の中だ…と、本日、何回目になるか解らないため息をついた。



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 「羽鳥さん、終わられましたよ」と声を掛けられ、素早く鞄にPCと資料を戻し、羽鳥は施術室の扉をノックした。

「失礼します」

 扉を開けて一礼すると、施術台の上で歯科医から話を聞いている吉野が居た。

「お久しぶりです、先生」

 施術台に近づいた羽鳥は、歯科医の方に声を掛けた。

「あらっ、羽鳥さん。ん?お知り合い?」

 椅子をくるりと回転させて、羽鳥の方を向いたのは、40半ばの女医で、この医院の院長だ。
 おっとりとした口調だが、仕事は正確で早い。

「はい。お世話お掛けします」

 気休めに持たされた羽鳥のハンカチを握りしめた吉野は、羽鳥に睨みを利かせる。
 が、赤く泣き腫れた目では、なんとも決まりが悪い。

「たまひたな」
「今、『だましたな』と言ったのか?」
「もふ、ひひ、ひらん!はか!」
「『もう、いい、しらん、ばか』…か?」

 麻酔が効いている為、上手く喋れない吉野は、プイっと明後日の方を向いて口を尖らせる。
 手に握られたハンカチの皺具合を見ると、相当だったようだ。

 内弁慶な吉野は、これ以上ココで騒ぐ事ができない…それは、羽鳥も重々承知で、保護者よろしく、恋人の容態を医師に問う。

「どうでしたか?コイツの口の中…」
「まず、右奥の歯は、神経までいっちゃってたから、神経は抜くけど、抜歯はしないで大丈夫。
 そこは、被せ物を作るから、次の予約で型を取るわね。
 詰め物してるから、ガムとかキャラメルはNGね。
 あと、初期虫歯が4ヶ所あったけど、レーザー当てて、シーラントでカバーしたわ」
「他には…?」
「ん〜、レントゲンには変な影もなかったし…。
 本当なら、デンタルケアを2ヶ月くらいに一回はして欲しいかな?」

 吉野は、施術台から降りて、医師に向かう羽鳥の横に立つと、シャツをクイっと引っ張った。
 『こんな処、さっさと出ようぜ』と顔にデカデカと書かれた吉野を無視して、羽鳥は医師に続けてこう聞いた。

「先生、虫歯って、そのままにしておくとどうなるんですか?」

 自分の事を無視して話す羽鳥に『もういい帰る!』無言の訴えをすると、ドアに向かい踵を返した吉野だったが、医師の口から飛び出した言葉に、動きが停まる。

「ん?死ぬわよぉ」

 冷静な声は、内容を適切に伝える。

「歯が死ぬとかって言う訳じゃなくてね。
 人が死ぬのよぉ」

 振り返り羽鳥を見ると『良い機会だから聞いておけ』と目配せされ、呑気な女医が発する非日常的な文言に、気を奪われ、吉野は羽鳥の隣に戻る事にした。

 女医はカルテに何かを書き込みながら、まるで人ごとの様に、淡々と羽鳥の質問に応えていく。

「虫歯菌が脳に悪さして脳炎とかぁ…。
 上手くモノが噛めなくて誤嚥…、…えっと、“むせる”って事ね…、それで急性肺炎とか…。
 心臓に虫歯から細菌が入って、感染性の心内膜症…。
 虫歯を避けて、片噛みで食事を続けて、背骨が曲がって寝たきりになったて、そのまま逝っちゃった人もいるわ」

 吉野は怖くなり、持っていた羽鳥のハンカチを強く握る。

「虫歯って軽く見られがちだけどね、自然治癒しない病気なのよ。
 だから、ちゃんと治療しないとねぇ」

 呑気に伸びた語尾は、間抜けだが、内容はかなりシビアだ。

 女医は、カルテを閉じ、ペン先を引っ込めて、胸ポケットにボールペンを戻すと、背後にある手洗い場で手を洗いながら続ける。

「あと、別の意味でも死ぬわね」

 そう言うと、吉野に振り返り、二コリと微笑む。

「吉野さん、ご飯好き?」

 素直に吉野がコクリと頷くと、“ヨシヨシ”と、紙タオルで手を拭きながら話を続けた。

「人ってね、おいしいごはんを食べると幸せになるの。
 そうじゃない?」

 吉野は頷く。
 隅にあるデスクに着いた女医は、羽鳥達に背を向け、デスクワークを始める。

「例えば、虫歯を放置しておいたら、抜けてしまったとするでしょ?
 抜けたら痛くないし、そのままにしておく。
 するとね、他の歯が、次から次へと、どんどん抜けていくの。
 大根みたいにポンポン抜けてっちゃうの。
 抜けたら、入れ歯とかインプラントとかあるじゃん!って人いるけどね。
 駄目なのよ、あれ…」

 椅子を回転させ、吉野を見た女医は、すこし困った顔をして首を傾げる。

「ご飯がおいしくないのよ」

 それは、とても切なくて悲しい顔。

「生きてるけど、死んでるようなものなのよ…」

 そして、ニッコリと微笑んで、吉野に語りかけた。

「ね、おいしくごはん食べたいなら、次回も必ず来て下さいね。
 吉野さん!」

 頷く吉野の手に握られたハンカチは、手汗で少し色が濃くなっていた。


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