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予定通り定時に仕事を終え、一時間掛けて帰宅した羽鳥は、案の上、起きる気配のない恋人の前で大きなため息を吐いた。
最初は、叩き起こそうかと思ったが、結局それが出来ずに、一時間、眠り姫…もとい、泥眠男の為に、せっせと夕飯を作っていたのは、想像に易い。
『徹夜でネームを仕上げたと聞いたから』とか、『最近忙しかったから仕方ない』とか、『休める時に休んでおいたほうが良い』とか…。
まぁ、色々御託を並べることはできるのだが、結局の所、羽鳥専用の枕をギュウギュウ抱きしめて、気持ちよさそうな寝息を立てて、己の寝具に包る、その恋人が可愛くて仕方ないだけなのである。
「おい、吉野、起きろ」
「ん〜」
別に低血圧でもないのに、常に寝覚めの悪い恋人。
「おい、吉野、飯、出来てるぞ」
「ん〜」
「それとも、そんなに襲われたいか?」
「ん〜…ん?お・そ?っ!!起きる!起きます!」
最近わかったのは、羽鳥の「襲う」と言う言葉に過剰に反応することだ。
羽鳥としては、襲う事はやぶさかでない…。
いや、相手がその気なら別に襲っても良かろう。
だが、あとでブツブツと文句を言われるのは分かっているから、あくまでも、起こす口実として使用しているだけなのだ。
が、そこまで否定されると、若干悲しい物を感じなくもないわけで…。
吉野は、ガバっと布団を捲り上げると、疾風の如く寝室を駆け抜けた。
「まったく…」と、ため息をまた一つ吐いて、簡単に寝具の崩れを直すと、羽鳥も寝室を後にした。
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食後に、シャワーを浴びた吉野は、濡れた頭をガシガシとタオルで拭きながら、リビングに戻ってきた。
ローテーブルには、折り畳まれたノートパソコンと、グラフや文字がたくさん書かれた書類。
ただし、羽鳥の姿はない。
お目当てのご飯と布団…ではなく、ネームのチェックが終わった吉野は「じゃぁ!」と勝手“知ったる羽鳥の家”のシャワーを借りたのだが…。
シャワー前はこの風景ではなかったから、吉野が浴室に居る間に羽鳥が店を広げてしまったのだろう。
「仕事残ってたなら、週明けでもよかったのかも…ネームチェック…」
この仕事を元々持って帰る予定だったのか、それとも、吉野のスケジュールに合わせて持って帰ってきたのかは、分らない。
だが、自分のスケジュールに合わせたのだとしたら、少し申し訳ない気がした。
が、謝る相手が、今、ここに居ないのでその気持ちは空振りに終わる。
ソファーとローテーブルの間に置かれたクッション。
床に一個、ソファーの座側面に立てかける様に一個。
さっきまで羽鳥が座っていたようで、床の方のクッションは膨らみを無くして、萎んでいる。
この場所に居ない羽鳥は、きっと仕事部屋と称した膨大な資料が置いてある部屋に居るのだろう。
羽鳥は吉野が来るとき、仕事があるとリビングでする事がある。
大概、そんな時は、吉野のネームやらプロットが、なかなか出来てなくて見張りと称してそうして居るのだが、本音は側に居たいだけなのだ。
無論、吉野はそんな事は知らずに、目の前の白い紙に向かって「ん〜」と唸りを上げるばかりなのだ。
しかし、残念ながら、と言うか、幸い、今日はそんな白い紙は存在しない。
ただ、目の前には無数の数字と細かい文字の書かれた書類。
吉野はなんとなくその羽鳥が居たであろう場所に収まってみた。
数分前まで羽鳥が居たのに、クッションは冷たくて、呑みかけのコップの下のコースターは、水滴を全部吸って、少し色が濃くなっていた。
「トリのパソコンって、なんか味っ気ない」
目の前には、羽鳥のノートパソコン。
吉野の家にも一応パソコンはあるのだが、カラフルで角も丸くなってツルツルしたボディーをしている。
が、羽鳥のパソコンはそんな可愛げが一切ない。
黒くて角ばっていて、無機質な感じだ。
機械に無機質だと言うのも可笑しな話だが、吉野は自分の家のパソコンしか触ったことがないから、そう素直に思ったのだ。
廊下の方に目をやるが、羽鳥の気配はない。
いつからこの場所が空席になったのかは定かではないが、吉野はこの蓋の閉ざされた無機質なパソコンを開いてみたくなった。
「まだ、帰ってくるなよ、トリ…」
パソコンの前面にある凹みに指を当ててスライドしながら、蓋を開けると、ファンが回るような音がキーボードの下から鳴って、真っ黒だった画面が青に変わった。
「パスワードの入力…厳重だな…」
画面中央に白い入力欄があり、パスワードを聞かれた吉野。
普段、会社でパソコンを使う者は大概こんな感じでパスワードを設定するのだが、吉野の家のパソコンはその設定をオフにしていたため、初めて見る画面だったのだ。
「とりあえず…え〜っと、“はとり”っと」
ブツブツと口の中で呟きながら、人差指で[はとり]と打って、マウスを[→]の上に持って行きクリックしてみたが【パスワードを確認してください】と、拒絶された。
続いて、[よしゆき]と入力してみたがコレもダメ。
思いつく単語を入力していく。
雑誌の名前、会社の名前、誕生日、母親の名前、昔飼ってた犬の名前、部屋の番号、車のナンバー…。
赤面しながら"よしの"と自分の名前も入力したが、ダメだった。
ん〜、と首を傾げていると、背後から「解けたか?」と羽鳥の声がした。
「ぬあああっ、こ、こ、これは!その!いや、違う!誤解だ!嘘だ!」
いたずらが見つかった子供の様に、と言うよりは、浮気現場を発見された旦那の様なリアクションを取った吉野に、思わず口元が緩んでしまう羽鳥。
吉野がそんな羽鳥の表情に気付かないのは、赤面していた顔が蒼白になって、まだ濡れた髪は、単に水ではなく、何か別の"冷や汗と言う名の液体"がプラスされた気がしたからだろう。
ソファーの上から覗き込むように、羽鳥は「しぃ」と呟いた。
吉野は、羽鳥が怒っていないとわかると、少し体温の移ったクッションに座り直し、「し〜」と呟きながら、言われた通りにキーボードをタイプした。
すると「違う!」と、羽鳥の腕が伸びてきて、バックスペースで入力を削除されてしまった。
「ちゃんと、入力したじゃん!」
「そくにちのに」
「はぁ?そく?何?」
「そ・く・に・ち・の・に」
「何だよそれ」
「打ってみろ」
吉野は、意味もわからず、キーボードの上で指を彷徨わせながら、羽鳥の言った通り「そくちのに」と慎重にタイプしていった。
六文字すべて打ち終えると、羽鳥は吉野の代わりにエンターキーを押した。
すると、パスワードは解除され、無数の数字が打ち込まれた表計算画面が現れた。
「おおおお!」
「よくできました…」
羽鳥は、吉野の背後にあったクッションを抜き取ると、そこに腰を落として、後ろから吉野を抱きしめた。
「ちょっ、狭いって!なに?」と、吉野が抗議すると、ローテーブルを少し向こうに押してスペースを広くした羽鳥は、再び、吉野を抱きしめる。
多少の甘い雰囲気を察した吉野は、話を元に戻す。
「ってか、なんだよ、“そくにちのに”って…」
「まだ、わからんか」
「わかんねぇよ、なに?
何かの暗号?呪文?ゲームとかの?」
「ん?恋の呪文」
「はぁ?な、なに言ってんの?
こ、こ、こい、恋の呪文ってなんだよ!」
時折、羽鳥が口にする歯の浮くようなセリフに赤面しながら、意味不明なキーワードに、大袈裟にリアクションしたのは、甘い空気を振り払いたかったから…。
無論、墓穴を掘るのは、吉野だと昔から相場は決まっている…。
「吉野…」
「な、なんだよ」
「普通のパソコンは、ローマ字入力を採用している」
「えっ…ローマ字?」
「お前の家のは、かな入力に設定しているが…」
「ってことは、"そくにちのに"って」
羽鳥は吉野の耳元で、囁きながら、キーボードを指差す。
「C・H・I・A・K・I」
それは、“恋の呪文-Pass Word-”
その後、羽鳥が「か、髪乾かしてくる」と立とうとし恋人の腕を引っ張って「また汗かくから良いだろ」と押し倒し「人のパソコンに勝手に触ったからお仕置きだ」と、吉野をあんあん言わせたのは、また、別のお話。
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