素描の旅人-Sketch Book VoyagerB | ナノ


2012-02-20


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 泣き腫らした目は重たく体はダルい、ただ隣で寝てる羽鳥の体温が暖かくて…。
 いつもは恥ずかしくて脱出してしまうシチュエーションだが、今日は素直にその状況を受け入れてしまうくらい、吉野は弱っていた。
 人の死に対して、抗体のある人間なんてそうそう居ないだろうが、文(ふみ)一つでここまで身体が衰弱するのかと自分でもびっくりしてしまった吉野は、まだ、目覚めてない羽鳥に「心配掛けてごめん」と、小さく謝罪した。

「ああ、ホントにな…」
「っぬあっ!起きてたのかよ!」
「もう、八時だ。
 あんなに早く寝たら普通はもっと早く起きる」
「…」
「実際、俺は6時には目覚めていた」
「はぁ?」
「もう、飯も出来てる。
 あと、今日は出掛ける」
「お、おい!…ちょ、ちょ待て、今日休みだろ?」
「休みだから出掛けるって言ってるんだ」
「…」
「吉野?」
「…ってこいよ…。
 どこでも…どこでも好きな所、行って来いよ」
「はぁ?」
「どこでも好きな所行けって言ってんの!
 俺、帰るから!」
「お前も一緒だ。
 …と言うより、お前が居ないと話にならん」
「はぁ?
 (こんな気分じゃ外出なんて無理に決まってんだろ!)」
「ほら、さっさと支度しろ、今日は、車乗るから酔い止めも飲んでおけ」
「(人の気も知らないで!)俺は――!!」
「三沢先生の家。
 昨日、行きたいって言ってただろ?」
「へ?」


 ってな会話をしたのが、4時間前。 
 善は急げ!と言うが、羽鳥の行動は吉野が考えるより早かった。
 昨日、風呂に入っている時に「三沢先生の所、行くか?」と聞かれ、頷きはしたが、まさか昨日の今日とは思っていなかった。

 バタバタと準備をして、一度、羽鳥の実家に寄り、車を借りて、一時間半ほど走った郊外に、三沢兼光の家はあった。
 旧家を思わせる佇まいを前に、羽鳥と吉野は少しの緊張をもってその扉が開かれるのを待っていると、ガラガラと音を立てて、戸が引かれ、中から、頬笑みを湛えた女性が顔を出し、ペコリと頭を下げた。

「いらっしゃい」
「はじめまして」
「まぁ、美人さんがおふたりも…。
 さぁ、上がって頂戴。」

 引き戸を開けたのは、品のいいカーディガンを羽織った羽鳥達の両親よりも二十は上の女性だった。
 その女性は、穏やかな声色で、羽鳥と吉野を家に招き入れた。
 「さぁ、こちらへどうぞ」と、仏間に通され「お茶をお持ちしますから、待ってて下さいな」と、言われ、羽鳥はコートを脱ぎ適当な所に腰を下した。


「改めまして、三沢の家内のミヤコです」
「羽鳥です。
 お電話でもお話しましたが、三沢先生には中学一年の時にお世話になりまして…。」

 お茶を差し出しながら、そう応答している二人を尻目に、仏壇の前の座布団にペタリと座り込みボロボロと泣き出す吉野をチラリと見た羽鳥は「こいつは、吉野です。私の幼馴染で、同じく中学の時にお世話になりました」と、ミヤコに簡単に紹介し「おい、吉野、ちゃんと挨拶しろ」と、叱咤したのだが、吉野の耳には届いていないとわかると「すみません」と代わりに頭を下げた。

「…ほんと、遠い所、わざわざ、ごめんなさいねぇ。
 とんだ田舎でびっくりされたでしょう?」
「いいえ、そんなこと…。
 それにそんなに時間もかかりませんでしたし…。
 あっ、あと、これ、お口に合うかわからないですが、どうぞ」
「まぁ、御丁寧に…」

 羽鳥は、実家の近所で購入した菓子折りをミヤコに差し出すと、少しの沈黙のあと、ミヤコが口を開いた。

「ごめんなさいねぇ、お葬式のご案内をお出しして無かった様で…」
「いいえ、私も先生とは新年のご挨拶程度でしか交流がなかったもので…」
「それでも、こうして来て下さって、ホント、主人も喜んでいると思います。
 ありがとう」
「とんでもないです…。
 本当に、知らなくて…」
「でも、そんなことをおっしゃっても、来て下さったんだから、何か理由がおありなんでしょ?」

 そうミヤコに問われた羽鳥は、それもそうかと思い、一度吉野に目をやり「吉野?俺から話して良いのか?」と聞くと、吉野はチラリと腫らした目で羽鳥を見てコクリと頷いた。


「私は今、丸川書店で編集の仕事をしています」
「丸川って“あの”丸川?」
「はい」
「まぁすごい。
 編集って、雑誌の?」
「はい、月刊の漫画雑誌です」
「まぁ、それはそれは」
「ここに居る吉野は、その雑誌に掲載されている漫画を描いている漫画家なんです」
「まぁ、そうなの?マンガって少年漫画かしら?」
「いえ、少女漫画なんです」
「まぁ、少女漫画…ごめんなさいね、何も知らなくて…」
「いえ、これは先生にもお話していなかったので」
「そうなの?」
「はい、吉野は“吉川千春”と言う、女性名のペンネームで作品を発表しているので、公に吉野の名は出ていないんです」
「よしかわちはる…」
「はい」
「どこかで聞いたような…。
 ――― あぁ、はいはい。
 わたしは読んだことないんだけどね、孫に買って!ってせがまれて、この間、買いましたよ」
「そうですか、ありがとうございます…」
「あっ、でもこれは秘密なのよね?」
「はい、すみませんが…ご内密に…」

 吉川千春の事を口外するのは褒められた事ではないと悟ったミヤコはニコって微笑んで、口元に人差指を当てて「シィーっね」と、茶目っ気を添えて返答した。
 羽鳥は、こちらの話ばかりしている事に気付き「すみません、こちらの事ばかり…」と目を伏せ、陳謝し、ミヤコに晩年の三沢の事を聞いた。


 ミヤコ曰く、三沢にとって羽鳥達は最後の生徒だったそうだ。
 それは病気で倒れても、倒れなくても…。
 つまり、羽鳥達が入学した年が、三沢の定年の年だったそうだ。
 まだ幼かった羽鳥達はその事を知らずに、先生と別れたわけだ。

 三沢は温厚で、親しみが顔から滲む、誰からも好かれる教諭であった。
 定年後は、旅行や写真を楽しみたいと言っていたが、夏の暑さに遣られ倒れてからは、隠居生活になり、外に出ることはなかった。
 時折、展覧会や美術館、好きな画家の写真集が出ると大きな書店まで足を伸ばし、購入したりしていたと、ミヤコは穏やかに話した。

「では、その時に、見掛けて下さって…。
 ありがとうね、覚えていてくれて」
「いえ、その時は、満足にお付き合いもできなくて…」
「そんなそんな。
 こうして会いに来て下さっただけでも、嬉しいのよ、ホント」

 そう言いながら、吉野の背中越しに、仏壇を見るミヤコだったが、突然、小首を傾げて「何だったかしら?」と呟いた。

「吉野さんって、下のお名前はチアキさんかしら?」
「おい、吉野」
「ん?」

 羽鳥に呼ばれ、吉野が振り返ると、ミヤコが身を乗り出し、吉野に問う。

「吉野さんって、チアキさん?」
「えっ、あっ、はい。
 ヨシノ、チアキです」
「大吉の“吉”に、野原の“野”に、千歳飴の“千”に、春夏秋冬の“秋”?」
「はい、そう、ですが…」
「ちょっと、待っててね、帰っちゃダメよ、待ってて頂戴ね」

 ミヤコは、ヨイショと机に手を突いて立ち上がり、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
 足音から察するに、二階に上がって行ってしまったようだ。

 なんの事だか分らない二人は、目を見開いて、さっきのミヤコのように小首を傾げた。

「お前の名前を言った覚えはないが」
「そうなの?じゃぁ、なんで知ってるんだ?」
「さぁ?」


 再び開かれた襖から、廊下のひんやりした空気が雪崩込んで、羽鳥はそちらに目をやる。
 「お待たせしてごめんなさいね」と、後ろ手に襖を閉めたミヤコの手にあったのは、一冊の大判スケッチブックだった。
 表紙の角は丸まり、銀色のリング部分も雲掛り、薄っすらと汚れた、決してキレイとは言い難い代物(しろもの)をミヤコは大切そうに机に置いた。

「ほら、ここ“吉野千秋”って」

 スケッチブックの裏表紙の下の方に、油性マジックで"吉野千秋"と、吉野の筆跡で書かれていた。

「私も、教師をしてましてね。
 人の名前を覚えるのは得意だったんだけど、最近、思いだせなくて。
 でも、思い出せてよかったわぁ。
 可愛らしい文字だし、タッチもキレイだったから、女の子かと思ってましたの」

 その言葉に、振り向いた吉野は、ずりずりと這うように机にやってきて、そのスケッチブックに手を伸ばした。

「よかったわぁ、御本人にお返しできて」
「うっ、うっ、ぜんぜぇ〜〜〜。
 わぁぁんっ…っ…ぐっ…」

 恋人の泣き顔は出来れば見たくないが『もうすぐ三十路の男がここまで盛大に泣けるとは、何と平和な世の中なのだろう…』と、羽鳥が呆れていると、ミヤコが「羽鳥さん、後ろにティッシュがあるから取って差し上げて」と、声を掛けてきた。
 「ハイ…」と苦笑交じりに、背後にあった箱を掴むと、中身を数枚取り出して、吉野の顔に押し付けた。

「とっとと、拭け!見苦しい…」
「どりぃ〜」
「なんだ」
「おれ、これがんばった」
「はぁ?」
「これ、夏休みにがんばった…。
 中学入ってさ、勉強が急に難しくなってさ、俺、絵ばっか描いてたから」
「確かにな」
「でさ、周りが、大人が」
「『漫画ばっかり描いてないで』って、言われてたな、お前」
「でもさ、三沢先生だけは、描けって」
「そういや、夏休みにお前の家に行ったら、勉強せずにデッサンばっかりしてたな」
「三沢先生は『吉野はデッサン力がないから、毎日一枚描け』って『毎日採点してやる』って、だから俺、頑張ったんだ」
「おかげで、宿題手伝わされたけどな」
「っ…!で、でも、今は、そのデッサン力が役立ってるんだし」
「…まぁな」
「ん?なんでそこ不満そうなわけ?
 認めろよ!トリ」
「はいはい、吉川先生。
 仕方ないから認めてやる」
「なんだと、このドS編集者!
 もっと作家に優しくしろ!」
「優しくして面白いものが作れるならとっくにそうしている」
「お前、覚えてろ!
 次は一番で入稿してやる!」
「出来るなら、最初からそうしろ」
「なにぃー!」
「お二人、仲がホントよろしいのね」
「「!」」

 羽鳥と吉野のやり取りを見ていたミヤコは「こんなに賑やかなお客さん久し振りよ」と、茶々を入れながら頬を緩ませた。

 スケッチブックには、絵以外に、デッサンした日付と共に、いろんな事が書き込まれていた。
 一枚の紙に所狭しと書かれた数々のデッサンに、三沢の採点とコメントが書かれている。
 人の表情を書くときの注意点や、金属と石膏の描き分け方、どの濃さの鉛筆を使うのが適切か、ボールペンで描くと風味が違うなんて事も書いてある。
 時には『人以外のヌードを描け』と言うお題の下に、晩ごはんで出た魚の背骨なんかが書かれてあったりした。

 その後、スケッチブックをパラパラ捲りながらの吉野百面相は、二時間ほど続き、気付けば夕刻に近くになっていた。

 冬の日暮れは早く、羽鳥達が三沢宅を後にする頃には、西に紫の奇麗な空が見えた。


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