素描の旅人-Sketch Book VoyagerA | ナノ


2012-02-17


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 それは、羽鳥と吉野が付き合い始めて初めての年末の話。
 周期明けの週末。
 羽鳥は、いつものように心の中で『ただいま』と呟きながら、誰も待っていないマンションのドアを開けた。

「ん?電気消し忘れたか?」

 廊下の電気が点けっぱなしだ。
 『消したはずなのに…』と、ふと足元を見ると見慣れた靴。
 どうやら、恋人が待っているらしい。
 羽鳥は念の為、携帯に着信がないか、確認するが、新着メールも着信もない。
 来る時に連絡がない事は多々あるが、待っている時は【寝てる】だの【早く帰ってこい、腹減った】だの『俺はお前の母親か!』と、突っ込みたくなるメッセージが携帯に入っている。
 いつもとちょっと違う雰囲気に、違和感を覚えながら、スリッパを突っ掛け、脱ぎ棄てられた靴の踵を揃え、廊下の奥、暗いリビングに続く扉を開けた。

「吉野?」

 ソファーの端っこに、黒い塊が見える。
 壁のスイッチを押すと、煌々と照らす蛍光灯の下で、塊は恋人となって現れた。
 が、何か様子がおかしい。
 電気をつけたハズなのに、吉野の周りだけ暗い。
 物理的な物ではなく、その気配が…暗い。

「吉野?」

 羽鳥が、もう一度呼びかけると、ダルそうに吉野は面を上げた。

「吉野!どうした?」

 羽鳥が目にしたのは、泣き腫らした吉野の顔だった。
 よくよく見ると、吉野の周りには丸まったティッシュが散乱していた。 
 いつからこの状態なのかはわからないが、相当泣いたであろうその腫れた目が、羽鳥を見つけると、ゆらりと立ちあがり、覚束ない足取りで羽鳥の前までやってくると、何も言わずにその胸に縋りついてきた。
 「とりぃ」と枯れた声で呼ばれた羽鳥は、状況が理解できず、吉野の肩に手を置き「どうした?なにかあったのか?」と、問うのだが、吉野は声を上げて泣き出してしまった。
 ボタボタと涙を零しながら、肩で息をする吉野に何を問うても状況はわからず、羽鳥は吉野をソファーに座らせると、外気で冷えたコートとジャケットを背もたれに掛け、革の手袋をローテーブルに置いた。

「寒いっ」

 ワイシャツだけになった瞬間、思わず口から洩れた己の声で、この部屋が冷え切っている事を知った羽鳥は、慌ててエアコンをONにすると、吉野の身体に触れた。

「お前、暖房も点けずに…。
 風邪ひいたらどうする」
 案の定、素手で触った吉野はひんやりとしていて、羽鳥はさっきまで自分が着ていたジャケットを吉野に纏わせると、身を寄せた。

「吉野、何があった?」

 稚児を諭す様に、背中を撫でてやると、吉野の腕がゆっくり動き「あれ」とローテーブルを指差した。
 それを追う様に目をやった羽鳥。

「…喪中はがき?」

 ローテーブルには、よくあるダイレクトメールの類いの中に、独特の薄い色で構成された喪中はがきが、一枚混ざっていた。
 羽鳥はそれを手に取ると、その文面を確認した。

「1月に当主・兼光が75才にて永眠いたしました。――― 三沢 都」

 そう呟く様に文面を読み撫でた羽鳥の声に、反応する様に吉野の目から涙が零れだした。

「そうか、三沢先生、亡くなられたんだ…知らなかった」

 三沢兼光は、羽鳥と吉野が通っていた中学で、美術を担当していた教師だ。
 と言っても、教わったのは入学から2学期に入る直前までと言う短い期間、5ヶ月間でしかなかった。
 一年の夏休み中に三沢は倒れ、そのまま、教職を辞してしまったのだ。

 吉野に比べ、羽鳥のリアクションが薄いのは、薄情などの問題ではなく、葬儀の連絡も無いほど疎遠になってしまった人物なら当たり前の感情と思われる。

 ただ、吉野にとって三沢という人物が重要なキーパーソンであると知っている羽鳥は『大袈裟だな、お前は…』などと揶揄することは出来ず、その震える背中を優しく撫でてやる事しかできなかった。


 少しして泣きやんだ吉野だったが、何かのきっかけで箍が外れた様に泣き出さないでもない雰囲気に、多少の不安感を抱きながら、羽鳥は「何か食べるか?水は?」と問うてみたのだが「いらない、飲みたくない」と返され、重たい空気が晴れることはなかった。
 やれやれと、項垂(うなだ)れた頭(こうべ)を撫でていると、吉野がポツリと呟いた。

「…がじょう」
「ん?」
「…年賀状、出してたんだな」
「ああ」
「ずっと?」
「いいや、たまたま本屋で――」

 それは、出先でたまたま入った本屋で、知人に再会するというよくある話。
 とりわけ美術の成績が良かったわけでもなかった羽鳥だったが、急に懐かしくなり、5ヶ月しか世話になってない、しかも担任でもない三沢に「三沢先生?」と、声を掛けてしまったのだ。
 声を掛けた後に『覚えてないかも…』と、思った羽鳥の予想を覆すように「羽鳥、羽鳥芳雪君かな?そうだね、久し振りじゃないか?元気にしてたか?」と、返されてしまったのだ。
 その時、羽鳥は「出版社に勤めています」と、名刺を渡したのだが、勤務中の身である羽鳥は「残念ですが、仕事中ですので…」と、早々に去ってしまったのだ。
 翌年、会社宛に三沢から新年の挨拶があり、慌てて個人として返信し、そこから新年の挨拶だけだったが、薄っすらと繋がっていたのだ。

「俺、初耳」
「その頃、お前は別のところで描いていたし、俺も、まだ丸川には居なかったからな…」
「そう、か…」

 本当は、三沢に吉野の事を教えてもよかったのだが、吉野が漫画家をしていると知れば、吉川千春の正体がバレてしまうかもしれない。
 駆け出しの漫画家でもあった吉野の足を引っ張ることはしたくなかった。
 吉野とて、三沢の話をすればきっと会いたかったに違いない。
 こんなにボロボロと泣き崩れる吉野を見るくらいなら、会わせておいてやるべきだったのかもしれない…。
 と、羽鳥は戻りもしない時間を虚しく思うのだった。


 灰色の葉書に食欲を削ぎ取られてしまった恋人をどうすることも出来ず、一人前の焼きそばを作った羽鳥は「ちょっとは食え」と、口元にソースの香ばしい香りを運んでやるのだが、パクリと元気なく開いた口が、ほんの一口咀嚼すると「もういい」と、また頭(こうべ)を垂れ、次は声も立てず泣き出してしまった。
 結局、風呂に入れ、パジャマを着せ、髪を乾かし、歯を磨き、ベッドに運ぶという、お世話フルコースをした羽鳥が「一人で寝れるか?」と吉野に聞くと、自分より一回り小さな手が掛け布団からにょきっと生えて、羽鳥のシャツの裾をクイっと引っ張るのを見て溜息を吐いた。

「すぐ戻ってくるから、ちょっと待ってろ」
「…」
「すぐ戻るから、離せ」

 ゆっくりと離れた手を布団の中に押し込むと、羽鳥は一人、リビングに戻った。
 例の喪中はがきを手に取り、壁の時計を見ると午後八時。

「まだ、大丈夫だな」

 羽鳥は、ファックス付きの電話機の受話器を上げると、喪中はがきに書かれた電話番号を慎重にプッシュした。


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