2012-08-03
編集部時代の龍一郎様。
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編集業は、原稿を編集して本にするだけが仕事ではない。
作家との打ち合わせも大切な仕事だ。
会社、カフェ、ファミレス、作家宅…その現場は多種多様。
居酒屋や料亭なんかも、使ったりする。
タクシーの後部座席で天を仰ぐ。
残念ながら天井は低く、叫びたくても運転手の目があって、それは叶わない。
逆に俯けば、溜息が漏れる。
少しの衝撃と共に、タクシーは我が家の前に停車した。
長財布から札を取り出し会計を済ませる。
己が動く度に空気に混ざるタバコの匂いにイライラしてしまう。
アルコールを摂取した身体でも、嗅ぎ取ってしまうくらいこびり付いたその匂いは、今日の相手…大物女流作家が吸っていたものだ。
「ごめん、ちょっと行き先変えるわ…」
再び、座席に座り直す。
タクシーは、ゆっくりと加速していった。
午前一時半の住宅街。
周りは静まり返る。
押し慣れたインターフォンを鳴らす。
1回目。
返答はなし。
少し待って2回目。
これで反応がなかったら帰ろう。
ドアフォンから「…はい?どちら様?」と、寝起きの不機嫌な声。
「………俺…」
そう、ポツリと呟くと、ガタガタと受話器が落ちた音の後、通信が切れた。
ドアの向こうで、世話しない足音が近づいてくる。
ドアが開く。
「龍一郎様!」
非常識な時間に来た事を怒るだろうか?
帰りなさいと諭されるのか?
「何かあったのですか?」
その目を見れば、心底俺を心配していて、安心した。
「……何か、何か無いと来ちゃダメか?」
「えっ?」
朝比奈に手を伸ばす。
「何も無くても来ていいだろ…」
背後でドアが閉まる音。
「…はい、おかえりなさい」
朝比奈の温かい腕の中。
鼻先に引っかかるタバコの匂いより先に、朝比奈の服に付いた柔軟剤の匂いが俺の鼻腔に流れ込んでくる。
そのまま首筋に鼻先をくっ付けると、シャンプーの匂いの奥に朝比奈を感じる。
「接待ですか?」
俺からタバコとアルコールの匂いがしたのだろう。
朝比奈はそうポツリと言った。
「うん」
朝比奈のシャツをギュッと掴む。
今日の相手は、大物だがハッキリ言って素行が悪い。
やたらベタベタと人に触って来るし、酔ったと言って、擦り寄ってきた。
どこぞの阿婆擦れに引けを取らないその行動に吐き気がしたくらいだ。
社長の息子って肩書きは、使いたくなくても、相手が勝手に使ったりするが、ある程度の人間になると、そのステータスを逆手にとって、俺を呼びつけ、好き放題言いやがる。
ビジネスライクだと思っても、所詮、人間なのだ。
得手不得手はある。
「タバコの匂い…」
「…はい」
「気持ち悪い…」
「そうですね…。
シャワーを浴びましょう、龍一郎様」
「うん」
風呂から上がると朝比奈と同じ匂い。
少し大きいシャツから優しい柔軟剤の香りと、髪からはシャンプーの香り。
「はぁ…生き返った…」
「それは、よかったです」
「ったく、アイツ、イイ作品書くんだけど、人間性はゼロだな」
「しかし、人間性だけあっても、売れない作品を書く人間は、ごまんと居ますからね…。
必要なのは、売れる本を書ける人間でしょう?」
「そりゃそうだ」
「うん、タバコの匂いも消えましたね」
ドライヤーが終わった俺の髪を一束掬って鼻を寄せる朝比奈。
優しく微笑む朝比奈を前に、俺は、これでいいのだと思った。
辛い事、嫌な事があっても、俺には、朝比奈がいる。
余計なオプションが朝比奈の手によって剥がされていく。
朝比奈に預けたリセットボタン。
それはインターフォンみたいに簡単に押せて、それを押したら、何重にも纏った重たい鎧も、何重に塗り重ねた道化の化粧も、一瞬のウチにキレイに取り払って、いつもの俺に戻してくれる。
「さぁ、もう、眠りましょう」
「あぁ」
ベッドに潜り込めば、朝比奈をもっと近くに感じる。
「おやすみなさい、龍一郎様」
「おやすみ、朝比奈…」
朝比奈の体温と匂いと鼓動を感じて、俺は今日を終える。
明日と言う日が、どんな日でも俺は大丈夫。
俺には、お前が居るから…。
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龍一郎様は、いつも色んな所で無理しちゃうタイプの人間だと思うのですよ…。
何も考えていないようで全部計算。
でも朝比奈の前では計算しなくていいんだよ。