2012-05-03
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「おうちにかえると、スーツのオジサンがいて、ママとパパになにか話していて…」
目の前の朝比奈は、小さく震えていた。
「さいばんしょから来たって言って、タンスとかテーブルとかテレビとかに、なにかシールみたいなのはって…。
もってた紙を見ても、かんじがいっぱいでなにが書いてあるかわからなくて、こわくて、ママの後ろにかくれていたら、ぼくのつくえにもシールが…」
朝比奈が見たのは、たぶん裁判所執行官だろう。
彼らが朝比奈家の中で行ったことは、差押えだと思われる。
動産は直接、不動産は登記簿に差押えがなされる。
朝比奈は運悪くその場に立ち会ってしまったのだろう…。
朝比奈の親父は建設業で財をなした、言わば成金だ。
一枚1000万円のゴルフ会員権に、一般のサラリーマンが手を出してしまうようなトチ狂った時代。
建設業を生業にしていた朝比奈の親父も、その波に乗っかって、土地を転がし、資産を増やしていった。
当時は、土地が暴落するなんて誰も考えなかったから、湯水の様に儲けた金を使い、そして、土地を買うために、銀行に金を借り、その金を何の疑いもなく土地に注ぎ込んで行く。
しかし、始まれがあれば終わりがある。
バブル崩壊だ。
持っていた土地の価格は軒並み下落、ペコペコ頭を下げて「金を借りて欲しい」と言っていた銀行様は、見切りを付け、身ぐるみを剥がしていく。
もちろん、競売された所で、購入時の10分の1以下にもならない価格で売り渡される。
手元に残るのは、払いきれない債務だけ。
しかし、幼い俺はそんな事なんて知らなかったし、普段、自分の両親を「お父さん」「お母さん」と言う朝比奈が「パパ」「ママ」と違う呼び方で呼んだり、自分の事を「僕」と呼ぶ事に対して『新しいかをるを知れてちょっと嬉しい』とか不謹慎な事を考えていた。
「オジサンが『教科書と筆記用具と布団と洋服は君の物だからね』って、いったから『このくつえも、ぼくのだよ!』っていったら、ママが泣きながら『ごめんねごめんね』って…。
おうちにあるものは、ほとんどシールがはられていて、ぼくのベッドにもシールがはられて…」
朝比奈は手の甲でボロボロと流れる涙を拭って、話を続ける。
「よるに、目がさめて、おとなりのへやでパパとママがおはなしてて…。
『薫は置いて行こう』って、きこえて…」
流れ落ちる涙には、一体どんな感情が込めれれていたのだろう?
当時の俺にも、今の俺にも、わからない。
恐怖、孤独、裏切り、恨み…etc…。
「おきたらパパもママもいなくて、ごはんをたべるへやにもいなくて…。
こわくてこわくてドアをあけようとしたけど、あかなくて、ドンドンたたいて…。
パパもママもいなくてさみしくて…。
でも、げんかんでママのこえがして、ドアがあいて、ママが『ゴメンね、ゴメンね、置いて行ってゴメンナサイ。やっぱり一緒に居ようね』ってだきしめてくれて…。
パパが『薫、パパとママを許してくれるか?』って言うから『うん、パパもママもだいすきだよ』っていったら、パパがくるまにのせてくれて…」
俺は、頷く事さえできなかった。
「でも、おうちのまえにあったくるまは、白くて、パパのくるまは赤で、それで、タバコのニオイがしたから『なんで、パパのくるまじゃないの?』ってきいたら『借りてきたんだよ』って…。
それから、ママがオレンジジュースをくれて「酔い止めも飲みなさい」っておくすりをくれて…
ぼくは『よわないよ』って言ったら、でものみなさいって…」
のちに朝比奈自身に聞いたのだが、それは睡眠薬だったようだ。
大人向けに処方された薬なら、小さな子供には危険な物だ。
しかし、今から死ぬのであれば、そんな事はどうでも良かったのかもしれない。
朝比奈の母親は、せめて恐怖を感じる事がない様にと、幼い朝比奈にそれを飲ませたのだろう。
「おくすりとジュースをのんで『どこにいくの?』ってパパにきいたら、パパが『三人で一緒に暮らせる静かな場所だよ』っていって、お山をのりはじめて…。
ぼくはねむくなって、聞いてたお歌もきえてて、ママがパパのとなりで『ゴメン、ゴメンね、薫』っていってて、でもぼくは「ママもパパもなにも、わるくないよ」っていいたかったのに、ねむくていえなくて…。
からだが、フワってういて、わからなくて、いきができなくなって、くるしくて、めがさめたら、びょういんで…。
口に何か入ってておはなしできなくて、となりにパパもママもいなくて…。
かんごふさんが『この子はもうだめね』『死んじゃったね』っていって…。
また、おいて行かれたとおもって…。
そしたらくるしくて、まっくらになって…」
その時、俺は朝比奈を抱きしめていた。
ボロボロと泣く朝比奈をギューギュー抱きしめて、気付けば俺も泣いていた。
小さな朝比奈は、大人のワガママに振り回され、捨てられ、拾われ…そして、我が家にやってきた。
「おじさんとおばさんは、しってるのか?」
朝比奈は首を横に振った。
「おれがいっしょに言ってやる」
「ダメ!!ダメです!」
「なんでだよ!」
「ダメなんです!」
当時の俺には分からなかったが、幼い朝比奈は、新しい環境に慣れようと必死の両親に、心配を掛けまいと耐えていたのだろう。
そしてきっと、朝比奈の両親はこの事に気付いていない。
しかし、丸で物語の様に、夢の内容を語る朝比奈。
どこまでが夢で、どこまでが本当か、それは本人も分からないかもしれない…。
だが、その夢は、一度や二度、見た物ではなく、もっと多くの回数…、もしかしたら、毎晩見ていたのかもしれない…と思うと、俺は胸が張り裂けそうになった。
「でも…」
「おねがい、おねがいです、りゅういちろうさま…いわないで…」
必死に止める朝比奈に根負けした俺は「なら、俺がすべきことは何だろう?」と必死に考えた。
そして、出した答えは…。
「おれは、おまえを一人ぼっちにしない!」
「え?」
「おれが、おまえのそばにいてやる!」
本気だった。
それが俺に出来る唯一の事だと思ったのだ。
そして、朝比奈は「ありがとうございます、りゅういちろうさま」と言って、小さく微笑んだ。