2012-04-21
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「小沢さん!何もなかったですよ」
「え?あっ、そう、ゴメンゴメン」
ギネスのきめ細かな泡が消えたグラスを煽っていた小沢は、軽い調子で井坂に謝罪した。
井坂も咎める事などはしない。
大問題という訳でもないし、これ以上、その事に触れていれば、帰りに見掛けたあの光景がぶり返してしまうからだ。
「…ねぇ、龍一郎君、何かあったの?」
「えっ?」
「なんか、元気ない顔してるから」
まるで、心の中を見透かしたように小沢にそう指摘され、一瞬、眉が動いてしまうが、「何もないですよ」と、いつもの様に微笑む。
「そう?悩みあったらお兄さんが聞いてあげるよ!」
「そうですか?」
「ああ、なんでもどうぞ!」
「じゃ、どうやったら、あの経団連のガンコ親父共をぎゃふんと言わせられるか、レクチャーして下さいよ」
「おっと!それは高くつくぞ!」
「金取るんですか…」
「どんな時も、金勘定!これ、経営者の鉄則」
「はは、言えてる」
トイレに立っていたせいで、少し水っぽくなった酒を喉に通し、唇に付いた荒塩をペロリと舐める。
龍一郎は、グラスをコースターに戻すと、それをバーテンダーに突きだし「国産ウィスキーある?少し甘口の。ホットで」とオーダーする。
バーテンダーは「かしこまりました」と、頭を下げ、コースターごと龍一郎の前からグラスを引いた。
「ウィスキーなんて全然飲んでないよ」
「最近、結構流行ってますよ」
「そうなの?」
「最近って言っても、数年前からですけど…。
トリスバーとか復活してるみたいで、親父が学生時代の友達と飲みに行ったって」
「そうか、君の父上は、その世代か…」
「ええ」
龍一郎は頬杖を突き、ナッツを数個掴んで、口にポイッと放りこむと、ポリポリと音を立てて咀嚼した。
小沢もそれを真似て、頬杖を突く。
「タバコ…いいかな?」
小沢は二コリと微笑み、龍一郎にそう問いかけた。
「ええ、どうぞ」
別段断る理由もなく、龍一郎は空いた手を表に返して、その申し出を受けた。
小沢がポケットから、ソフトパッケージのタバコと薄っぺらいマッチ箱を取り出すと「龍一郎君は吸わなかったっけ?」と言いながら、パッケージを軽く振り、タバコを一本取り出し、それを咥える。
シュッと音を立てて擦られたマッチ棒は、微かな爆発音とともに炎上し、タバコの先端に紅い光と灯す。
その一連の所作は、慣れている以上に様になっていると龍一郎は思った。
「似合いますね」
ふと、口から漏れてきた讃辞に、小沢は「お褒め頂き光栄です」と煙を吐いた口角を上げる。
龍一郎は運ばれてきたホットウィスキーに口を付け、ナッツをまた一口に入れる。
鼻に抜けるウィスキーの甘みと、ナッツの渋さが心許ないバランスを保ちながら、龍一郎の嗅覚を刺激するのだ。
「こうして、大人になって何年も経ちますが、子供の頃に想像していたほど、酒もナッツも美味しくはないですね」
「ああ、そうかもしれないね…。
タバコも然りだよ…。
…龍一郎君は、元々吸わない人?」
「いえ、以前は吸っていました」
以前と言っても、朝比奈と付き合いたての頃だから、10年ほど前の話だ。
大人ぶって少し吸っていた時期があった。
でも、好きで吸っていたわけじゃなくて、吸っていた方が、皆が思う井坂龍一郎のイメージに合っていた…ってだけで。
やめた理由も単純で、タバコを吸わない朝比奈に「タバコの味ってどうだ?」とキスをした後に聞いたら「そうですね、あまり良いものではありませんね…」と、返事をされたからだ。
だから、やめた。
我ながら、単純過ぎる理由だが、朝比奈があの時「好きですよ」と言っていれば、今でも吸っていたかもしれないと思うと、やはり、朝比奈に相当惚れているらしい…。
「なんで辞めちゃったの?」
40も過ぎた男が可愛く問う質問でも無いが、小沢の愛嬌はそれも良しとしてしまう。
「さぁ、特に理由なんてないですよ」
少し含み笑いをしたのは、吸っていた理由か、それとも辞めた理由か…。
そんな龍一郎をぼんやりと見ながら、小沢はタバコを灰皿に弾く様に先に溜まった灰を落とす。
「ねぇ、龍一郎君」
ナッツの入っている小皿の淵で指を遊ばせていた龍一郎は、小沢に呼ばれその方向に顔を向ける。
が、目の前が霞んでしまう。
何度か強く瞬きするが、晴れる事はなく、返事をしようとすると口の周りの筋肉が上手く動かない…。
「大丈夫かい?」
小沢が龍一郎の肩に手を当て、揺らす。
龍一郎は悟られまいと「はい」と小さく返事をして、小皿に入ったナッツを口に運んだ。
「…っ」
しかし、ナッツは、龍一郎の手から零れ落ち、上手く口に入ってくれない。
視界は、まだボンヤリとしていて、でも、光は強く、瞬く夜景は煩いぐらいに頭に響く。
「龍一郎君?大丈夫かい?」
肩を揺すられる感覚はしっかりと感じるのに、小沢が呼ぶ声がやけに遠い。
龍一郎は「はい」と答える事しか出来ず、突いていた頬杖が外れ、カウンターに突っ伏してしまった。
「大丈夫ですか?お客様?」
カウンター内のバーテンダーが二人の元に近付き小沢にそう言うが、小沢は「ああ、ちょっと調子が悪かったんだろう」と苦笑する。
「すまない、チェックを」
「はい、かしこまりました」
小沢は、長財布からカードを取り出すと、バーテンに渡す。
「龍一郎君、カードキーは?」
「…む、ね…に」
「気持ち悪い?」
「…だ、るぃ」
背を擦られながら、単語を答える龍一郎に、小沢は「まったく、いきなりどうしちゃったの?」と一つため息を吐く。
小沢は「何か、あればフロントに言えばイイのかな?」と言いながら、バーテンが持ってきた伝票にサインを入れる。
そして、ポケットにタバコとマッチを突っ込み、片手にミリタリーパーカーを引っ掴むと、龍一郎の片腕を自分の肩に掛け、椅子から立ち上がる様に促す。
龍一郎の頭には「ええ、対応させて頂きますが、あまりご無理はなさらず」と言うバーテンダーの声が何重にも鳴る。
視覚も聴覚も身体の感覚も全ておかしいのに、頭の芯は覚醒している。
そう客観的に分析できても、身体は上手い具合に動いてくれない。
いうなれば、この感覚は、恐怖…。
(朝比奈…)
口先の筋肉は弛緩していて、動かない。
(朝比奈…)
声なき己の声が龍一郎の頭の中でハッキリと響く。
(怖いよ…かをる…)
龍一郎を乗せたエレベーターは、今夜、龍一郎と小沢が出会った階へ落ちて行った。