2012-04-11
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龍一郎様の周りには常に人がいる。
今日もこうして自分が食事を断ったのに、一人でいるわけでもなく、誰かと居た。
自分と居る事が出来なかった事など、大した事ではないのだろうか??
自分なら、どうしていただろう?
一人で居たのだろうか…。
でも、きっと誰と居ても、思う事は龍一郎様の事で…。
運転中に考え事とは、如何かと思うが、朝比奈はそう考えずにはいられないくらいに、今、後ろで窓の外を見る恋人の動向が気になって仕方なかった。
『出来ればもう少し一緒に居たい…』そう思っても、いつまでもグルグルと同じ道を走るわけにも行かず、朝比奈は龍一郎のマンションのガレージで、車中で終始無言だった恋人に「おやすみなさい」と頭を下げ、その後ろ姿を見送った。
「はぁ…」
朝比奈は、再び運転席に戻ると、溜息を吐いた。
スグに家に帰ればイイのだが、さっき思った『出来ればもう少し一緒に居たい…』という気持ちは未だに消えず、このままこの場を去る気にもなれず…。
バタリとシートを後ろに倒すと、低い天井に自分の再び吐いた溜息が、跳ね返ってきた気がして、また溜息を吐く。
平日は、仕事中ずっと一緒にいて、時間があれば自宅に招いて一緒に食事をする。
さすがに毎日泊めるわけにもいかず、龍一郎様を「とっとと御自宅にお帰り下さい」と追い出すのだが、追い出した後は、今みたいに「もっと一緒に居たい」と思ってしまう。
だが、数千人規模の社員を預かる丸川の幹部である井坂龍一郎にとって、休息もまた仕事だ。
秘書である自分は、龍一郎様より早く出社し、専務である龍一郎様は自宅に迎えに来る社用車で出勤する。
つまり、龍一郎様が私のマンションに宿泊する事は、龍一郎様の休息時間を短くする事とイコール…。
よって、有能な秘書である朝比奈は、自分の気持ちなど無視して「とっとと御自宅にお帰り下さい」などと、龍一郎の尻を叩くのだ。
しかし、今日は随分前からずっと一緒に居る予定だったのだ。
気持ちが現実に付いて行けていない。
しかし、今から、自宅に招く訳にもいかない。
「ん?なんだ?」
目の端で何かがキラリと光り、朝比奈は後部座席の足元に手を伸ばす。
指先に当たった物を握れば、ソレはヒンヤリとしていて…。
「ペン?」
朝比奈が握った物は、龍一郎がいつもスーツの胸ポケットに差しているペンだった。
「全く…明日、渡す事を忘れない様にしないと…」
いつもの世話役の顔に戻った朝比奈は、自分のスーツの胸ポケットに、そのペンを差した。
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時同じくして、リビングのソファーで龍一郎は朝比奈の事を考えていた。
あの桜の下に居る限り、朝比奈と二人きりで居れたのに…。
車中でも二人きりだったのに、朝比奈は何も言わなかったし、目を合わせる事もなかった。
少し面倒臭そうな顔をして、自分を早く帰宅させようとした。
そんなに一緒に居るのが嫌なのだろうか?
春先の冷えた部屋は、床に入ったヒーターによって徐々に暖かくなるが、気分は沈んだままだ。
もっと一緒に居たいと思っているのは、自分だけで、相手はそう思っていないという事実があまりにも残酷な気がして、龍一郎は、脱いだコートを拾う気さえ失せていた。
平日に、朝比奈の部屋に行っても、絶対に「帰宅しろ」と追い出される。
朝比奈の言わんとしている事は、わかっている。
秘書である朝比奈が、俺より早く出勤するのは仕方ないし、外注契約しているドライバーは自宅に送迎用の社用車を寄こす。
俺は、その車に乗って、会社に行かなければならない。
つまりは、朝の余計な手間を省きたいのだ。
でも、もう少し一緒に居たいと思ってくれてもいいんじゃねぇ?
一緒に居られるのは、予定のない休日前夜か、時間が余った平日の夜のひと時。
特に、今回のデートは、随分前から予定していて、顔には出さないが内心とても楽しみにしていた。
朝比奈はそんなに楽しみにしていなかったのだろうか?
「明日は桜が愛でられそうですね…」などと言ったのは、スケジュール確認の為だったのだろうか??
さっきは、女々しくそれをネチネチ言うのが癪で、車中でも朝比奈と口も聞かなかった。
素直に文句を言えば、朝比奈は「本当は、私も一緒に居たかったんですよ」とか言ったりしたのだろうか?
でも「旦那様がおっしゃったので」と返されたら、本当に救いようがない。
朝比奈の事だ、明日も今日と変わらず、何食わぬ顔で俺の世話を焼いて、セカセカと仕事をして、さっきと同じように俺の背を見送るのだろう…。
それで、一日が終わる。
今週末は予定が入っていて、ゆっくりできそうにない。
ケンカをしたわけじゃないが、嫌な気分のまま顔を合わせて仕事をする。
朝比奈の中で、今日の事は"無かった事"なのだ。
「……桜…、キレイって言いたかったのに…」
ウジウジとそんなことを考えながら、バスルームに移動してきたが、漏れた言葉があまりにも女々しくて慌ててシャワーコックを捻る。
床に跳ねる水音が、耳に残った自分の声をかき消してくれる事を期待したのだが、思った以上に朝比奈に伝えられなかった想いが残っていて、いつまで経っても消えそうにない。
今日の事を"無かった事"にした朝比奈に、どう伝えればいいのだろうか?
明日の朝、「昨日の桜、キレイだった」と言えば…。
…いや、自分の根の性格上、それは出来ない…。
ならば、そんな事、思わなければよかった…。
朝比奈は何故、自分をあんな所へ連れて行ったのだろうか?
グルグルと、泡を含んだ湯を吸いこむ排水溝に、この気持ちも一緒に流れて欲しいと思う自分は、やはり女々しい…。
やはり、朝比奈が側に居ない龍一郎は、自分の事を否定してしまう。
「全部、朝比奈のせいだ…」
吐きだす言葉は、やはり女々しかった…。