小さな首輪C | ナノ


2012-03-03


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 どれくらい走っただろう。
 自分の喉が切れるくらい乾いていて、呼吸をするたびに咽返(むせかえ)ってしまう。
 多少なりともアルコールが染みた身体は、いつもより早く悲鳴を上げて、バクバクと心臓が波打つのがわかる。

 夢中で走ってたどり着いたのは、住宅街だった…。
 都会の雑踏も車のクラクションも、客引きの女も、煩いBGMもない。
 ただ静かに、頭上の街灯がジーっと音を立てて、煌々と俺を照らしている以外なんにもなかった。

「はぁ、はぁー…、げほっ…」

 酸素が足りない。

 ああ、何故、逃げてしまったんだろう…。
 きっと、朝比奈は俺を眼中に捉えていただろう。
 明日明後日と休日だが、否応なしに月曜日には会う訳だ。
 不自然に逃げた事をあいつはどう思ったんだろう…。

「龍一郎様っ!」

 己を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、黒い影に包まれてしまった。
 はぁはぁと、細かく呼吸を繰り返すその影は、俺の身体を力強く抱きしめてくる。

「朝、比奈…お前…」
「いきなり、走って、行かれ、たので」
「追いかけて、きた、のか」

 バクバクとなる心臓と、荒い呼吸に邪魔された会話。
 力一杯抱きしめられた俺の身体は、ギシギシと音を立てそうだったが、今は逃げられないように捉えていてほしいと思う。

「一瞬、見失って、焦り、ました」

 そう言うと、朝比奈は、俺の旋毛に、頬を寄せて、殊更、深く俺の身を抱いた。
 しゃべるにも力がいる状況で、俺は返事もせずに、上から降り注ぐ灯りの中、朝比奈の背に手を回した。

「おんな」
「…はい?」
「あの、おんな、どうした…」

 少しずつ治まって行く朝比奈の心拍音と呼吸音を耳で聞き取りながら、俺は朝比奈にそう問いかけた。
 少し考えた朝比奈は『あっ』と、俺の肩に項垂(うなだ)れる。

「どうした?」
「…突き飛ばしてしまいました…」

 その情けない声に苦笑してしまった。

 朝比奈は、人に対して粗相をするような人間ではない。
 それは、俺の隣に居る為の義務だと本人は言う。
 「私の粗相は、龍一郎様の粗相になりかねませんので…」
 昔、そう言われた事がある。
 自分も含めて全て俺の評価になると思っている朝比奈は、常にそういった考え方で行動している。
 だから、酒で失敗することもないし、相手が女性や年下だからといって横柄な態度をとったりしない。
 勿論、しゃしゃり出ることもない、社内外問わず、人に無礼な態度を取ったりしない。

 そんな朝比奈が、女を突き飛ばしてしまうなんて…。
 俺が走り出した背中で聞いた女の悲鳴は、朝比奈に突き飛ばされた女の声だったようだ…。

 嗚呼、こいつはあそこから一体どんな顔で俺を追って来たんだろう…。
 一回くらい振り返っても良かった気がする。

 少し元気のない朝比奈。
 自分のミスを発見した人間なんて、こんな感じなのだ。
 しかし、やったしまった事は、仕方がない。

「おい、朝比奈。帰るぞ」
「…はい」

 朝比奈は、項垂れた頭を起こして、ケータイでタクシーを呼びだす。
 帰るのはもちろん朝比奈の家だ。


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