2012-03-01
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「お疲れ様でした」
「いーえ、お相手に選んで頂けて光栄でございました、大先生様」
「いえいえ、井坂さんが居なかったら、今の僕はなかったわけですから…」
「つか、あの時、一位取ってなかったら契約切られてたんだろ?」
「ホント、ギリギリでやってましたから……ははは」
2月14日午後9時。
俺は、とあるバーの前に居た。
先程まで雑誌取材を受けていたのだ。
単独ではなく対談形式のモノで、相手は、俺が入社してすぐに担当した作家だ。
この程、その頃の作品が映画化されるという事で、その作家がプロモーションを兼ねて取材を受けた所、対談相手に俺を選んだのだ。
相手は、今や超が付く人気作家である。
しかも、映画化されるということは、版権を持つ丸川としても嬉しくないわけがない。
俺としては、あまり表に出ることは得意ではないが、オファーを受けることにした。
が、それがよりによって2月14日だったのだ。
「先生、井坂専務、申し訳ありません。
手配したタクシーが一台遅れているようで…」
「そうなんですか…。
大丈夫です。
僕は、大通りで拾いますから」
「しかし、先生…」
「大丈夫ですよ、ねっ!井坂さん」
そう話を振られた俺は「酔い覚ましに歩くから、お前が乗れよ。大先生様」と、からかう様に、相手をタクシーに押し込んだ。
ふらりと入った裏路地を抜けると、さっきより少し大きな道に出た。
ふと、屯(たむろ)している団体に目が行った。
たぶん、俺じゃなくても目が行ったであろうその集団の中には、大きな腹を抱えた女―山本の姿があった。
しかも、酔っ払いよろしく自分より長身の男の首元を掴んで、ブンブンと前後に揺さぶりながら大声でどなり散らしているのだ。
そんな山本を周りの女共が宥(なだ)めていた。
「あさひなぁ!てめぇ、らんでいさかをつれてこねぇんだよ!」
「先輩、酒も飲んでないのになんで酔ってるんですか…もう!」
「あっ、たしかにぃ……ヒクっ…あ゛〜」
山本は酒が飲めない。
身重だからという訳ではなく、元々、下戸なのだ。
以前、俺が編集に居た頃に、先輩に飲みに連れて行かれたが、その時はコーラとジンジャーエールで出来上がっていた。
そう、飲めないが、場の雰囲気に酔ってしまう癖がある。
しかも、しっかり酔う。
「一応『おめでとう』くらいは言ってやるか」
場所を聞く前に仕事が入ってしまい、わざわざ聞くのも面倒と確認しようともしなかったのだが、ココが丸川と大して離れていないなら、こうして偶然にも同じテリトリーで酒を飲んでいてもおかしくはない。
さっきまで呑んでは居たが、仕事という手前、本格的に呑むこともできず、中途半端にアルコールを摂取した心身(からだ)は、いつもより上機嫌だ。
店の前の観葉植物が影になって山本が喧嘩を吹っ掛けている相手の姿は確認できないが、たぶん、朝比奈だろう。
こんな人通りの多い所で、勝手に人の名前を叫ばないでほしいもんだ…まったく。
「もぉ、先輩!朝比奈さんが困ってるでしょ!!
ねぇ、朝比奈さん!」
足を向けた次の瞬間、山本と朝比奈を割くように、女がその腕に抱きついた。
『なんだ!あの女!俺の朝比奈に!』
そんな気持ちを足元に込め、踏み出したが…。
はたして、俺はその場に行って、どんな顔をすればいいんだろうか?
”―― 嫉妬した恋人の顔?”
そう頭に浮かんだ瞬間、俺はその場に立ち止まってしまった。
道の真ん中に立ちつくす俺を、人は避けて流れていく。
雑踏は静かになり、俺の視界は真っ暗になった。
俺と朝比奈は…人には言えない小さな世界で生きている。
コソコソしている訳ではない…でも、ああして朝比奈の腕に女がぶら下がっているのは、世間では普通の光景なのだ…。
それは、俺ができない事…。
どれだけ朝比奈が俺の近くにいても、どれだけ朝比奈が俺のことを好きでも、ああして、朝比奈を狙っている異性が存在しているのだ。
柔らかな胸を押しつけ、猫撫で声を発し、上目遣いで、細い腕を絡ませて…。
無暗に押し払えば傷付け折れてしまいそうなその体で…朝比奈に…。
「あーー!いさかだぁ!!」
呂律の回らない大きな声が聞こえて、俺は、はたと現実に引き戻された。
声の主、山本が俺を指差して騒いでいる。
俺は、何故か判らないが、その場を逃げ出した。
踵を返し、駈け出した途端、後ろで女の短い悲鳴が聞こえたが、振り返らず地を蹴った。
人を掻き分け、裏路地に入っても走った。
前から歩いてくるカップルを寸での所で避けて、普段は通りもしない道を方向も確認せず。
走りにくい皮靴を履いた足は、酷く重くて、持っていた鞄を壁にぶつけ、グリップの利かない靴底に何度も躓きそうになりながら、逃げた。
一体、何から逃げているんだ??俺は…。