瞼に残ったその笑みに
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もう、全てを正確に思い出すことは出来ないけれど。

三年前のあの日もこんなふうに、満開になった桜がその花弁を少しずつ散らし始めていた。





「おはよう」

目を開けると、すぐ傍に貴方がいて。
寝起き特有の掠れた声で、そう言った。

「…おはよう、ございます」

貴方の腕の中で目を覚ます。
そんな朝に、ようやく慣れてきた頃だった。

「身体は大丈夫か」

その問いの意味が分かってしまって、私は照れて。
貴方はそんな私を見て、くつくつと楽しげに喉を鳴らした。


あの日の朝餉に何を作ったのかは、もう覚えていない。
でも、二人向かい合って食べたことは覚えている。
いつものように他愛のない話をして、貴方は最後に「美味かった。ごちそうさん」と私を労ってくれた。

そこまでは、普段と何も変わらない日常だったの。


違和感は、唐突に訪れた。

朝餉の片付けを終え、部屋の掃除をしようと雑巾や盥の支度を整えたところで。
不意に貴方が、私を呼んだ。
てっきり縁側でお茶を飲んでいると思っていた貴方は、私の傍に寄って来て。

「なあ……、今日は」

優しく、でも有無を言わせない力で私を抱きしめた。

「トシさん…?」

別に、まだ明るいうちから抱きしめられることが初めてだったわけじゃない。
それなのに、急に感じた胸騒ぎ。
腕の中でその名を呼べば、頭の上から掠れた声が降ってきた。

「今日はずっと……こうしててくれ、」


その瞬間、全てが分かってしまったの。


あの苛烈を極めた戦いの中で、羅刹になった貴方。
命を削り、血に塗れ、貴方は戦った。
近藤さんのため、仲間のため、息子みたいなものだと称した部下のため。
自らを顧みず、前を向いて走り続けた。


とうとう、その日が来たのね。


羅刹の力を使えば使うほど、残された寿命が短くなる。
それを知っても、貴方は戦うことをやめなかった。
その力を使うことも、やめなかった。
最後まで、真の武士であり続ける、と。
貴方は刀を振るった。
その勇姿は、日の本の最後の武士として、誠の旗の下に深く刻まれた。


残された時間を、目に見える確かな形として計ることは出来なかった。
だから、最期の瞬間に悔いることのないように。
戦後、私たちは人里離れた地で二人寄り添って生きた。

三年目の春。
それは、長かったのか短かったのか。
終焉は間近に迫っていた。


桜の木の根元に、並んで腰を下ろす。
貴方はすぐに私を抱き寄せ、一時も離そうとはしなかった。

「…早すぎるって、怒られちまうな」

誰に、とは言わなかった。
でも、誰のことを指しているのかはよく分かっていた。

あの戦いで命を落としていった、大切な仲間たち。
皆が皆、貴方に最期の望みを託して逝った。

「総司に嫌味言われて、斎藤に説教喰らって、原田に呆れられて、平助に文句を言われて……近藤さ、ん……に…っ、」

そこまで言って、貴方は言葉を詰まらせた。

「近藤さんが、きっと取り成してくれますよ」

よく頑張ったな。
もういいんだ、と。
彼は言うだろう。

私には言えないことを、彼はきっと言ってくれるだろう。

だから、許してほしい。
もうじゅうぶんです、と。
もういいんです、と。
そう言えない私を、許してほしい。


「そう、だな。…あの人はいつだって、お人好しだった」
「それは、トシさんもですよ」

全てを隠して、鬼になった。
新選組のために、近藤さんのために。
貴方は鬼の面を被り続けた。

本当は誰よりも優しくて、情け深い人だった。

「お前くらいのもんだよ、そんなことを言う物好きは」

呆れた口調。
浮かんだ苦笑い。
何度も見た、その横顔。

もう、これが最期だというのに。

「………何も、残してやれなかったな」

言葉に交じる悔恨に、首を振る。

「いいえ。…トシさんは、私が一番欲しかったものを残してくれました」

最期まで、貴方と共に。

この乱世の中、私の唯一の願いを。
貴方は叶えてくれた。
共に戦い、共に生きた。
貴方とならば、あの戦で死ぬ覚悟も出来ていたのに。
貴方は最後に、穏やかで優しい時間まで用意してくれた。

本当は、死にたかったのかもしれない。
自分だけが助かってしまったと嘆いた貴方は、潔く腹を斬ってしまいたかったのかもしれない。

それでも、生きてくれた。
私と、生きてくれた。

それ以上に望むことなんて、もう何もない。

「ナマエ……この先、もし、」

躊躇いがちに紡がれた、未来の言葉。
貴方がいない、未来の話。

「分かっています」

それ以上は、たとえ貴方の願いだとしても聞いてあげられないの。

誰かに嫁いで、幸せになれ。

その願いだけは、聞いてあげられないの。

「ナマエ、」

本当に貴方は、最期の最期まで人の心配をして。
結局彼らは皆、似た者同士だったのだ。

「私は生きます、トシさん」

だから、仲間を見送り続けた貴方を、今度は私が見送ってあげなければならない。

「貴方に貰ったこの愛を糧に、幸せに生きます」

だから、安心して下さい。
自ら命を絶ったりしないから。
戦場で、何度も貴方に救われた命。
貴方が命を吹き込んでくれた、この生。
決して無駄にはしないから。

「…お前にゃ、敵わねえなぁ」

だから、いつか。
いつか私が、もう一度貴方に会いに行ったその時は。


「なあ、ナマエ」

腕の力が少し緩み、間近に顔を覗き込まれる。
滲んだ紫紺の瞳は、穏やかだった。

「……俺は、幸せだった」

見つめてくる視線は優しく、甘やかで。
紡がれた言葉は、静かに深く私の中に沁み込んだ。

「お前と生きて、幸せだったよ」


ねえ、私、いつかその時がきても絶対に泣かないと。
そう決めていたのに。
視界が滲み、頬が熱く濡れた。

「…ったく、相変わらず泣き虫だな」

貴方は呆れたように苦笑したけれど。
その声は、愛おしさだけを含んでいた。

「わ、たしも…っ、幸せでした。この先も、ずっと、幸せです…っ」

だから、後悔なんてしません。

そう言えば、貴方は驚いたように少し目を瞠って。
やがて、くしゃりと顔を歪めた。

「…くそ…っ、……もっと、」

嗚咽に交じった、掠れた声。

「もっと…っ、お前と、」


生きたかった。


声にならない叫びが、私を貫いた。


色白の頬に手を伸ばす。
いつも貴方が私にしてくれたように、親指でそっとなぞる。

「トシさん…っ」

本当は、もっと何か言いたいことがあったはずなのに。
言葉は声にならなくて。
唇からはただ、愛おしい名前だけが零れた。

「ナマエ………、ナマエ……っ」

同じように、貴方が私の頬に触れて。
愛おしむように、慈しむように。
何度も肌を撫でた。

お互いを確かめるように。
ただ名前だけを呼んで触れ合った。

その時間に終わりを告げたのは、貴方が息を呑んだ音だった。

さらり、と。

微かに聞こえた最期の衣擦れ。


ああ、逝ってしまう。
貴方が、私を置いて。


「ナマエ…っ、愛してる…!」


震える手で私の頭を引き寄せ、貴方は最期に口付けた。
互いの頬を濡らす涙が、溶け合って滑り落ちる。
触れた唇の熱に、想いの全てを捧げた。


「………トシ、さん………?」


風に舞い上がる、桜吹雪。
その中に交じった、貴方の欠片。
一陣の風が吹き、そしてそれが収まった時。
目の前にはもう、貴方はいなかった。

「…トシさ、……っ」

貴方の匂いを残した着物を掴んで抱きしめる。

もう、もういない。
どこにも、いない。

貴方が私を呼ぶことも。
眉間に皺を寄せて苦笑することも。
無骨な手で私に触れることも。
月を眺めて穏やかに笑うことも。
愛してると、私に囁くことも。
もう、二度と、ない。

「トシさ…っ、トシさん……!」


貴方の匂いと温もりを胸に抱きしめて。
私は、二度と拭ってはもらえない涙をただひたすらに流した。














「かあさまー?かあさまどこー?」


生きると誓った。
貴方との、最後の約束。

それでも、立ち上がれなかった。
涙が枯れなかった。
そんな私の背を押してくれたのは、掛け替えのない。
貴方との、大切な大切な命。

「ここにいるよ!」

まるで、貴方の生き写しみたいに。
黒い髪、紫紺の瞳。
負けず嫌いで、意地っ張りで。
本当は甘えたな、愛おしい子。


ここにいる。
生きている。
ちゃんと、幸せに生きている。

「ほら、おいで」

貴方がくれた全てのものを抱きしめて、私は生きている。


だから、見ていてほしい。
いつもみたいに腕を組んで、少し苦笑しながら。
穏やかな優しい目で、見ていてほしい。

そして、いつか私が、もう一度貴方に会いに行ったその時は。

よく、頑張ったな、と。
その大きな手で、頭を撫でてほしい。






瞼に残ったその笑みに
- 何度でも立ち上がる -





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