暴君の妻に必要なもの[1]
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天霧は、数歩前を行く主の背に深い溜息を吐いた。
常日頃から決して陽気な男ではないが、今この瞬間はいつにも増して機嫌の悪い様が見てとれた。
歩調は荒く、気は乱れ、挙句の果てには時折殺気までもが飛んでくる。
付き従う者が自分でなければ間違いなく気を失い、余計にこの男の苛立ちを増長させていたことだろう、と天霧は思った。

だが、分からなくもない、と。
夜空に浮かぶ月を見上げつつ、天霧は主の憤りの原因となった今日の出来事を反芻した。


戦争は集結し、風間の統べる西の鬼は薩摩の手を離れた。
もう二度と人間の戦に手は貸さぬと、山奥の里に一族を隠し、人間との関わりを禁じた。
しかしそれは建前上でのことであって、人間との関わりを一切断つことは実質不可能であった。
里の安泰のため、頭領である風間だけが時折薩摩の上層部と会合を設け、互いに情報交換という名の牽制を続けている。
いつになっても鬼の存在は人間にとっての脅威であり、またその逆も然りであった。
人間を愚かと罵る風間とて、数では遥かに鬼を勝る彼らを無視することは出来なかった。
その動向を把握し、こちらに従属の意思がないことを示し続けるのは、最早頭領としての義務だった。

表面上は、薩摩の上層部も風間ら鬼の意思を尊重するような言葉を並べ立てている。
しかし、所詮は互いに腹の探り合い。
薩摩との会合の後はいつも、風間は決まって機嫌を損ねた。

今日も会合を終えた風間は、外に出るなり「物分りの悪い愚者共め」と唸ったきり、あとは一言も口を聞かずに里への帰路を歩き続けている。
天霧は、月の位置からおおよその時刻を判断した。
恐らく里に帰還する頃には、夜九ツを越えているだろう。
今夜は荒れそうだ、と。
その犠牲となる自分を含め、屋敷の者たちを憂いた。

天霧にとって風間千景という主君は、政の手腕に長けた歴代の中でも頭一つ飛び抜けた名主だ。
この激動の時代において、見事に里を守り調和を保たせたものだと思う。
彼に庇護される里の鬼の一人として、天霧は風間を高く評価していた。

しかし従者としては、風間は間違いなく仕えづらい主君だった。

政においては悠然と構え、卓越した手腕と先見の明を発揮する風間は、一度公務から離れると途端に身儘で短慮な男に成り下がる。
度を過ぎるほどの自尊心が前面に押し出され、一度機嫌を損ねようものならその回復には多大なる時間と労力を要する。
加減知らずの傲慢さで誰彼構わず叩き斬ると脅し、従者の瑣末な失態で怒り狂う。
おかげで風間の屋敷では、本人に隠れて彼の機嫌の良し悪しを報告し合う光景が日常的に見られた。


さて、今日は早く寝てくれるといいが。

天霧がそんなことを考えていると、不意に風間が肩越しに振り返った。

「その視線は止めろ。気分が悪い」

開口一番がこれである。
天霧は内心で溜息を零した。

「失礼。…何が気に障ったのか、敢えては聞きますまい」
「…ほう、」

風間の声に、愉悦が混じる。
彼は怒れば怒るほど笑うという、また厄介な性質の持ち主でもあった。

「天霧貴様、そこに直れ。手討ちにしてくれるわ」

風間はそう言って、左腰に差した刀の柄に手をかけた。
これだから、短気だと評されるのである。
しかし幼い頃から風間をよく知っている天霧は、彼のこの性格は決して直らないと観念していた。

「帰りましょう。これ以上遅れては、屋敷の者も心配します」
「…ふん、」

天霧がそう促すと、風間は刀から手を離して前に向き直った。
相変わらず不機嫌そうな背を、天霧は再び黙したまま追った。


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