記憶の中の白い海は[4]翌日の朝。
ナマエ・ミョウジとプレートに掛かれた病室の前で、大きく深呼吸。
ゆっくりと右手を持ち上げた。
白いドアを、2回ノック。
静かに、引き戸を開けた。
昨日と同じように、ナマエはベッドに腰掛けていて。
僕を見て、にこり、と笑ったから。
よかった、嫌われてはいないらしい、と。
安堵して、微笑んだ。
ここからまた、始めよう。
「初めまして、バーナビー・ブルックスJr.です」
ベッドに歩み寄って、右手を差し出すと。
ナマエは僕をきょとんと見上げて、突然吹き出した。
可笑しそうに笑って、肩を揺らす姿に。
何を笑われているのか分からなくて、首を傾げれば。
行く宛を失って浮いた右手に、ぱしん、と拳がぶつけられて。
「バーニィ、何のジョーク?」
多分に笑いの篭った声で尋ねられた。
「…は?」
いま、彼女は、僕を何と呼んだ?
聞き慣れた、だが久しぶりに感じるその呼び名。
昨日の他人行儀とは違う、砕けた口調。
「…ナマエ、俺のこと、分かるんですか…?」
情けなくも、声が震えた。
希望に縋り付く思いで、そう聞けば。
「だから、何の冗談なの?私より、バニーちゃんの方が入院したら?」
これは、これは嘘じゃない。
からかう時に、バニーちゃんと呼ぶ癖。
彼女は本当に、僕のことを分かっている。
「…ぁ…、ナマエ…っ」
彼女の中に、ちゃんと僕がいる。
全て、分かっている。
今目の前にいるナマエは、今まで僕を愛してくれていたナマエだ。
気がつけば、視界が滲んでいた。
僕が突然泣き出して、ナマエはさすがに驚いたようで。
「ちょっ、バーニィ?なに、どうしたの?何かあった?」
心配そうに、覗き込まれて。
もう、嬉しくて嬉しくて。
胸が張り裂けそうだった。
新しく始める覚悟は、もちろんしていたけれど。
やはり、悲しくてつらい。
その感情までは消えてくれなかったから。
記憶が戻っている。
その事実に、ただ安堵して感謝した。
病室の床に崩れ落ちれば、嗚咽が漏れる。
みっともないのは分かっていたが、涙がとまらなかった。
迷子になった子どもが、母親に再会できた時みたいな、そんな感覚。
昨日は我慢出来たはずの涙が、床に水溜まりを作っていって。
僕はしゃくり上げながら、幼子みたいに泣いた。
「…バーニィ」
不意に、名前を呼ばれて。
涙でぐちゃぐちゃの顔を上げれは、ユアがベッドから下りて立ち上がったところで。
彼女は僕のすぐ傍にしゃがみ込むと、ふわり、と笑った。
「怖かったんだね、バーニィ」
伸びてきた手が、僕の頭を抱き寄せて。
柔らかい胸に、ぎゅう、と包み込まれる。
「何か、怖いことがあって、ずっと我慢してたんだね」
ナマエの華奢な手に、髪を撫でられて。
その行為は、僕を落ち着かせてくれる。
涙がようやく止まったところで、冷静に状況を分析して。
急に恥ずかしさが込み上げた。
でも、それよりも。
「ナマエ、よかった…」
彼女の記憶が戻った嬉しさが大きすぎて。
ナマエの身体を抱きしめ返した。
一生戻らないかもしれない、と言われていたのに。
ちゃんと、彼女は思い出してくれた。
それがただ、幸せで。
「ナマエ」
何度も何度も名前を呼んで、確かめて。
僕の呼吸は、やっと楽になった。
バーニィ。
そう言って。
窓から光が差し込む白い部屋で、貴女は綺麗に笑った。
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