[73]天秤
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「拓己さん拓己さん!見て下さい!」

九月の終わり。
練習後に帰宅した保科を待っていたのは、ひどく興奮した様子の彼女だった。
差し出されたのは、見覚えのない一冊の本。
そこに記された彼女のペンネームに、保科ははっと顔を上げた。

「出来ました!」

彼女が、少し照れ臭そうに、でもどこか誇らしげに笑う。
保科はもう一度手元に視線を落とし、彼女の新しい本をじっと見つめた。
ハードカバーの表紙を、親指でそっと撫でる。

「……おめでとう」

保科は心からそう言って、彼女を抱き締めた。
腕の中で、彼女が甘えるように保科に擦り寄る。
保科は本を持っていない方の手で、彼女の頭を優しく撫でた。
彼女が保科のサッカーを応援し、試合結果に一喜一憂してくれるように、保科も彼女の本が出版されるということが嬉しい。
決して、恵まれた執筆環境ではないはずなのだ。
何よりも保科が、彼女に負担を掛けてしまっている。
家のことを全て任せ、それだけでなく、プロのスポーツ選手の生活をサポートさせてしまっている。
彼女自らが進んでやってくれていることだが、やはりどうしても申し訳ない。
だがそんな環境でも、彼女はこうして自分の仕事で結果を残した。
保科はそんな彼女を誇らしく思う。

夕食後、保科はリビングで早速彼女の本を開いた。
夜更かししないで下さいよと言いながらも、彼女は嬉しそうに笑って茶を淹れてくれる。
読み始めてすぐ、保科はあることに気付いた。
そしてそれは、五時間後、読み終えてみると確信に変わる。

「……この主人公、」
「あ、やっぱり気付いちゃいました?」

本を閉じゆっくりと顔を上げると、保科の隣で別の本を読んでいた彼女が悪戯っぽく頬を緩めた。

「モデルは拓己さんです」

ああ、やはり、と保科は思う。
自分のことだから確信に至るまで時間が掛かったが、間違えようもない。
この主人公は、彼女から見た保科のイメージだ。

「かつてないほど格好良いキャラクターになってたでしょう?」

勿論、他人が読んでもそうとは分からないだろう。
明確に保科を示す単語が出てくるわけではない。
だが、保科には分かってしまう。
主人公は生真面目で、不器用で、口下手だった。
でも仲間思いで責任感が強く、芯の一本通った優しい男だった。
そして、少し臆病で照れ屋で、意外と変なところが抜けている、そんな男でもあった。
彼女の目に、保科はこんな風に映っているのか。
無論、全てが全て保科をトレースしたキャラクターではないのだろう。
外見の特徴などは全く違うし、あくまで保科はイメージモデルだ。
それでも、彼女が保科をモデルにして書いたというその男性キャラクターは、男が読んでも格好良いと思わされる描写をされていた。

「今回は書くのが本当に楽しかったんですよ。こんな時拓己さんなら何て言うかな、どうするかな、って。そんなことばっかり考えて書きましたから」

彼女のその発言に喜ぶなというのは、無理な相談だろう。
保科は思わず彼女を抱き寄せていた。
愛おしさでおかしくなってしまいそうだ。
彼女は自分を喜ばせる天才だと、そんな風に思うのはもう何度目のことだろうか。
それが、愛情なのだろう。
彼女が愛してくれるから、その愛の上に様々な行動が成り立つから、それらが保科にとって喜ばしいものとなるのだ。
彼女を抱き締め、髪の上から蟀谷に口付けて、保科は暴れ出しそうな衝動を彼女に伝えていく。
どんな言葉ならばこの想いに相応しいのか、もう分からなかった。
好きだ、大好きだ、愛おしい。
彼女の髪に口付けながら、保科は熱く吐息を零した。

やはり、手放せない。
やはり、離れられない。
どうしても、彼女だけは、絶対に。

彼女を抱き締めながら、保科は一つ、彼女に伝えなければならないのにまだそう出来ていないことを思い、ぎゅっと唇を噛んだ。


その話が保科の耳に入ったのは、今月の上旬、今年予定されていたキリンチャレンジカップの試合が全て終わった頃だった。
イタリアのトスカーナ州フィレンツェを本拠地とするチームから、スカウトを受けたのだ。
イタリアの一部リーグ、セリエAに所属する世界に名の知れたクラブチームである。
チームの監督は、二年前の五輪で初めて保科の存在に気付き、それ以降注目していたらしい。
今回のW杯で、チームに迎え入れたら確実な戦力になると確信した、と言われた。
保科自身は何一つ満足出来ない内容となったW杯本戦だが、最後のPKを除いて客観的に見れば、確かに保科は司令塔として良い働きをしたのだ。
帰国後、彼女が録画しておいてくれた試合映像を観たが、それが自分でなければ評価出来るプレーをしていた。
監督は、保科のボールコントロール、パスの精度、戦術眼、統率力。
今のチームや日本代表で買われている保科の特徴を高く評価した上で、是非イタリアにと誘ってくれた。
セリエAでプレー出来るチャンスなど、プロの中でもひと握りの選手にしか与えられない貴重なものだ。
保科はスカウトに感謝した上で、前向きに検討すると返答を保留した。
今年の年末までには答えを出すと、約束している。
決断までの時間は、あと三ヶ月しかなかった。

選手として考えるならば、これは挑戦すべきだ。
今のチームに移籍してから、まだ半年。
すぐにまた移籍というのは申し訳ないが、それでもこのチャンスを逃すべきではない。
満も、早く外の世界を見に行けと言っていた。
圧倒的に強い奴等の中でもがけ、その方が伸びる、とかつて言われたことがある。
その機会を目の前に差し出されたのだ。
死に物狂いで挑戦してみる価値は充分にあるだろう。

だが、イタリアのチームに移籍するということは、当然、イタリアに本拠地を移すということだ。
どのくらいの期間になるか、現時点では全く分からない。
使い物にならないと一年で契約を切られる可能性もあるが、上手くいけば五年十年の単位でチームに所属出来る可能性もある。
どちらにせよ、長く日本を離れることになるのは明らかだった。

その間、彼女は?

保科が躊躇う理由は、間違いなくそれに尽きた。
正直、そんな自分に驚いたのだ。
サッカーに関することを決める時に、それ以外の何かが保科の判断に介入するなんて初めてのことだった。
しかし本心は誤魔化せない。
保科は、彼女と離れることに耐え切れないほどの寂しさを感じる自分を無視するわけにはいかなかった。
イタリアと日本に離れてしまえば、そう簡単には会えなくなる。
それこそいつかのように、会えるのは年に一度、オフシーズンの間の短い時間だけだろう。
時差は八時間。
連絡も、そう気軽には取れない距離だ。
共に暮らすようになって約半年。
保科はずっと彼女に支えられてきた。
それは生活面の話であり、精神面の話でもある。
彼女のおかげでサッカーに専念することが出来、そして彼女のおかげでW杯の敗戦後も折れることなく戦い続けることが出来ていた。
帰国後、リーグ戦に一度も欠かすことなく出場し続けている保科は、未だ負けなしだ。
第十八節から第二十八節まで、チームは連勝。
この調子でいけばJ1の無敗記録を更新するのではないかと言われるほどの勢いである。
彼女はずっと保科の傍にいて、保科を支え続けてくれた。
その彼女と、離れる。
それは保科にとって耐え難いことだった。
ならば連れて行けばいいというのも、そう簡単な話ではない。
まず、彼女には仕事がある。
保科同様、その仕事は稼ぎを前提としたものではなく、生涯をかけた夢だ。
それを保科のために辞めさせるわけにはいかない。
さらに、生活や言語の問題もある。
保科はある程度海外生活に慣れているが、彼女はそうではないだろう。
イタリア語も、比較的容易な言語とは言われているが、しかし実際はそう簡単なことではない。
保科はサッカー用語を覚え、チームメイトとある程度のコミュニケーションが取れれば何とかなるが、彼女はどうだろうか。
保科が練習や試合をしている間、彼女は一人きりなのだ。
知らない土地、しかも日本から遠く離れた海外で、保科以外は誰も知り合いがいないという状況は、彼女にどれほどの不安とストレスを与えるだろう。
東京から埼玉に引っ越すだけで、保科は彼女に対し申し訳なさを感じたのだ。
イタリアなんて、冷静に考えれば正気の沙汰ではない。
彼女の家族は、友人は、そして仕事はどうなってしまうのか。
何をどう考えても、彼女をイタリアに連れて行くというのは現実的ではなかった。

なら、置いて行くのか?
一年に一度しか会えない状況に、自分は耐えられるのか?
そして彼女は、そんな勝手な男を待っていてくれるだろうか?

この二週間、思考は堂々巡りだった。
正直、どちらも得る解決策はどこにもない。
サッカー選手としての挑戦か、彼女との生活か。
どちらかを諦めなければならない。
価値の土俵が全く違うものを、保科は無理矢理天秤にかけなければならないのだ。

保科は、彼女を抱き締めながら思う。
考えても考えても、答えは出ない。
今はただ、この温もりを手放すことには耐えられないと、強く思い知らされていた。



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