[60]恋人
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どことなく、ぎこちない空気だった。
互いに相手の内心を探り合うような沈黙が続く。
誤魔化すようにマグカップで茶を飲みながら、落ち着かない雰囲気を感じていた。
無理もない。
かれこれ四年、ずっとメールのやり取りは続いていたが、直接会って言葉を交わす機会は両手で数えれば指が余るほどしかなかったのだ。
しかもこの距離感である。
どんな風に何を話せばいいのか、すっかり役立たずになった思考ではなかなか思い浮かばなかった。

「……なんか、変に緊張しますね」
「はい」

保科同様、彼女もこの状況に上手く馴染めていないらしい。

「……でも、いいですね」
「え?」
「恋人って感じ、するじゃないですか」
「……はい」

伏し目がちに笑った彼女の横顔に、保科は見惚れた。

「触れても、構いませんか」

保科を上目に見つめた彼女が恥ずかしそうに視線を逸らし、それでも、そっと身体を寄せて来る。
保科は両腕を伸ばし、彼女を抱き締めた。
互いにコートとジャケットを脱いだため、空港で抱き締めた時よりも温もりが近い。
手触りの良いワンピースに包まれた身体を、壊さないようそっと腕の中に閉じ込めた。
華奢なのに、とても柔らかく感じるのはどうしてなのだろう。
あたたかくて、いい匂いがした。

「前から、気になってたんですけど」
「はい」
「保科さんって、誰に対してもその喋り方ですか?」

意外な問いに、不意を突かれる。

「いえ、そういうわけでは。目上の方と話す時は敬語ですが、友人や後輩と話す時は普通です」
「私に対しては?」
「……気を、遣っているというか。癖になってしまったというか」

初対面の時、彼女を取材に来た人だと思った。
恐らく年下だろうということは分かったが、敬語で対応した。
途中で変えるタイミングが掴めず、そのままずっとここまで来てしまった。

「気遣って貰えるのも、そうやって丁寧に接して貰えるのも嬉しいんですけど、よかったら、普通に話して貰えたらなあって思ってます。素を知りたいというか、なんか、その方が距離が縮まる気がして」

顔を上げた彼女に至近距離で見つめられ、保科はその瞳に吸い寄せられる。
どうしよう、可愛いと、何度思わされるのだろうか。

「……うん、」

保科は殆ど無意識のうちに、そう頷いていた。
目を瞬かせた彼女が、一拍置いて破顔する。
眩暈がするほど眩しかった。

「俺からも、お願いがあって」
「何ですか?」
「あなたを、名前で呼んでも構わないだろうか」
「はい、勿論」

恋人関係とは、こんなに凄いものなのか。
ずっとそうしたくて、でも出来なかったことが、こんな簡単に許されるのか。

「………ナマエ、」
「はい、拓己さん」
「ーーーッ?!」

こんな破壊力で、打ち返されるのか。

「あ、駄目でした?」
「な……、ぁ……」
「私も、名前で呼びたいです」
「そ、れは……勿論、どうぞ、」

堪らなくなって、彼女の背に添えた手に力を込める。
ぎゅう、と抱き締めて、その柔らかな髪に頬を押し当てた。
この高鳴る鼓動は、彼女に気付かれているだろうか。
そんなことが心配になって、でも離せそうにはなかった。


「クラブには、明日行くんですか?」
「うん。本契約と、あとは新居も決めなければならない」
「ああ、そうですよね」

どんな家でもいいと考えていた、新居。
拘りなどない。
だが保科は今、気付いてしまった。

「……一緒に、暮らさないか」
「………はい?」

どんな所でも、彼女がいてくれなければ意味がない。

「ちょ、え、ほし、拓己さん、待って下さい」

がばりと、彼女が保科の胸元から顔を上げる。

「それ、今思い付きましたよね?意味分かって言ってます?っていうか、ちゃんと考えてます?」
「考えている」
「いや、あの、」
「もう、あなたと離れたくない」

保科は彼女の問いに対し、素直に答えた。
すると彼女が、奇妙な呻き声を上げて保科の肩に顔を埋める。

「……ナマエ?」

保科はよく分からないまま、彼女の頭を不器用に撫でた。
いや、でも、だってと、彼女が保科の耳元で小さく独り言つ。

「嫌か」
「……嫌じゃ、ないですけど、」
「何が問題だ?」
「……急すぎませんか。心の準備とか、色々あるっていうか」
「あなたが待てと言うなら、俺はいくらでも待つ。ずっとそうしてきた」
「………それを言うのは卑怯です」
「あなたを責めているわけではない」

うう、と彼女が小さく唸り、保科の腰にそっと腕を回した。
きゅう、と力が込められる。

「私、物書きを続けてもいいですか?」
「何を言っている?当然だ」
「時期によっては執筆に掛り切りで、すごくだらしない姿とか見せるかもしれませんけど、幻滅しませんか?」
「家の中で寛いで何が悪い」
「家事とかも、疎かになるかも、」
「俺はあなたに家政婦になってほしいわけではない」

どうやら保科と暮らすことが嫌なのではなく、不安なことがあるのだろうと理解した。
彼女が挙げていくその要素に、一つひとつ答えていく。

「あなたに負担を掛けたいわけではない。場所も、都内の、あなたの都合の良いところで構わない」
「何言ってるんですか。ホームタウンは埼玉ですよ?」
「俺の移動時間を気にする必要はない」
「それが一番大事です。だからちゃんと、クラブハウスの近くで物件探してきて下さい」
「それではあなたが、………え?」

彼女の髪を撫でていた手が止まった。
それをきっかけにしたのか、彼女が顔を上げる。

「絶対ですよ」

どこか怒ったように、でも頬を仄かに赤く染めて、彼女はそう念押しした。
それは、つまり。

「………いいのか」
「私の仕事は場所を選びませんから」
「いや、違う。一緒に、暮らしてくれるのか」

勘違いして糠喜びをすることは避けたいと思った保科の確認に、彼女は視線を彷徨わせ、やがて小さく頷いた。



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