[23]影響重心をぐっと前にかけ、走り込む。
視界が開ける。
ボールとの距離、敵味方の位置、それぞれの動き、意図、状況、芝の感触。
様々な情報を一瞬で、しかし緻密に計算し、この瞬間最も必要な位置へとボールを送る。
サイドチェンジのロングパス、今。
保科は右脚を振り抜いた。
思った通りの軌道を描き、ボールが飛ぶ。
しかしそのパスは、味方のFWに受け取られることなく、サイドラインを越えた。
「すまん!」
パスを受け取り損ねたFWが、右手を顔の前に立てて申し訳ないというジェスチャーをする。
立ち止まった保科は、ピッチの外に転がるボールに視線を向けた。
この日四本目のパスミス。
「落ち着け、タク!」
前線から、満に宥められた。
焦っているつもりはない。
ボールコントロール自体も、問題はなかった。
だが、味方の動きを読み間違えたのだ。
ここまで来る、と思った場所が、遠すぎたらしい。
ここ数日、練習の度に起きる連携ミスだった。
「すみません。もう一度お願いします!」
際どい位置を攻めすぎているのだろうかと、保科は自身の考えを改める。
試合形式の練習が再開され、今度は、予想しているよりも少し手前にボールを送った。
だがやはりそうすると甘すぎるのか、攻撃が単調になり、結局相手チームの選手にカットされる。
そのバランスを調整しきれないまま、練習試合は終わった。
先日の試合の途中から、MFである保科とFW陣の連携が崩れている。
試合そのものは保科が交代することで事なきを得たが、MFとFWの連携ミスは致命的だ。
最近の練習は、その調整を主な課題としているが、何度やっても上手くいかない。
チーム全体が、ピリピリとした嫌な緊張感に包まれていた。
勿論、受け取り損ねようのない確実なパスを出そうと思えば、そう出来る。
だがそれでは、攻撃のテンポが遅くなる。
より速く、より高度に。
要求される水準は高く、そうなると、パス一つとっても針に糸を通すようなコントロールが必要だ。
しかも、勝手に動く針と勝手に動く糸を使い、嵐の中で糸通しを試みるような、そんな離れ業である。
それを試合中に何十回でも成功させられなければ、このチームのMFは務まらない。
練習後のミーティングで、保科はFW陣からそれぞれの意見を聞いた。
だがそこに、保科が盲点だったと驚くような意見はない。
どれも、保科が重々承知している内容だった。
つまり、目に見える形で保科が何かを見落としているわけではないのだ。
解決策が見つからず、途方に暮れる。
とりあえず次の試合は他のMFで対応するという結論を出されても、保科に反論の余地はなかった。
ミーティング後、練習用のグラウンドを借りて自主練に励む。
だが、ひたすらにボールコントロールの精度を上げる練習をしたところで、意味がないわけではないが、現状の打破には繋がらない。
それでもやめると何かが零れ落ちていくような焦燥感に駆られ、保科はボールを蹴り続けた。
分かりやすい言葉を当て嵌めるならば、スランプに陥っているのだろう。
かれこれ十七年、サッカーを続けてきたのだ。
何もこれが初めてのことではない。
だが、精神的な不安定さを感じていることは否定出来なかった。
保科のことを機械のようだと評する人がたまにいるが、言うまでもなく保科とてただの人間であり、いつでも完璧なわけではない。
むしろ自分は本当はとても臆病なのだと、保科は知っていた。
だからこそ練習に練習を重ね、徹底したリスク回避を心がけ、自らに課したルールを遵守することで、その臆病さを捩じ伏せてここまで来た。
立ち止まるな、考えることをやめるな。
走り続けろ、蹴り続けろ。
自らに言い聞かせ、保科は前を見据える。
三十メートル先、一列に並べた高さ十八センチのミニカラーコーンが二十個。
左端から順に当てて弾くこと六回目でボールを外した保科は、普段であれば考えられないようなミスに顔を顰めた。
スランプを抱え、試合に出られない日々が続く。
その日の試合も、ベンチ入りはしていたものの、結局保科に出番が回ってくることはなかった。
チームも敗戦を喫し、悔しさともどかしさを抱えて遠征先のホテルに戻る。
試合に出場出来なかった時の恒例である九十分のランニングとストレッチを終えた保科は、ベッドに寝転んで天井を見上げた。
このままではいけないと分かっているのに、解決の糸口は見つからないまま。
連携が上手く取れなくなってから、かれこれ一月近く経っていた。
自分の意識に引っ掛かっている違和感をチームメイトたちと話し合うべきなのかもしれないが、生憎、漠然としたこの感覚をどう説明すればいいのか、口下手な保科には上手く言葉に出来る気がしない。
はあ、と深く溜息を吐き出した保科は、枕元で震えたスマートフォンに手を伸ばした。
メッセージの着信が一件。
見れば、送り主は石動だった。
初戦突破!とだけ書かれたメッセージ欄に、保科は目を瞠る。
そうだ、今日からか。
保科は慌てて跳ね起き、インターハイの結果を検索した。
石動の報告通り、東院は一回戦を二対一で勝利している。
そして聖蹟も、初戦を三対一で突破していた。
よかった、と、保科の口から今度は安堵の溜息が零れる。
自分の置かれた状況を一旦忘れてしまうほど、嬉しかった。
後輩たちの活躍も、彼女のチームの勝利も。
おめでとう。
今夜は充分に休息を取り、明日も気を抜くことなく頑張れ。
石動への返事を打ち込みながら、彼女にもこんな風に言葉をかけることが出来ればいいのにと考える。
生憎、連絡先さえ聞けていない保科には、夢のまた夢だった。
今頃彼女は何をしているだろう。
ホテルの部屋で、明日対戦するチームの最新の試合映像を分析しているところだろうか。
彼女にとっては初のインターハイ本戦だ。
きっと気合いが入っていることだろう。
あまり無理をしていなければいいが。
そんなことを考えていた保科は、ふと、自身の口元が緩んでいることに気付いた。
恋とはつくづく、人をおかしくするものだ。
天に昇らせたり、地に叩き落としたり、とにかく心を振り回す。
ともすれば疲弊しそうなほどに、精神が浮き沈みを繰り返す。
それでも想うことをやめられないのだから、魔性のようだ。
恋愛とは総じてそういうものなのか、それとも保科が不慣れだからなのか、あるいは彼女が特別なのか。
何にせよ、保科は彼女に振り回されてばかりな気がした。
しかもそれが、彼女に直接何かをされたわけでなく、彼女の所属するチームの試合結果を見ただけでこの有り様なのだから笑うしかない。
事実、保科は小さく喉を揺らした。
塞ぎ込んでいたはずの気分が急に軽くなって、自分でも驚く。
なんて現金なと呆れてみても、しかしもうそこに先程までの憂鬱な蟠りはなかった。
保科は、よし、と内心で気合いを入れる。
彼女は、戦ったのだ。
きっとまた無理をして、やれることを全てやって、チームに貢献した。
そして、勝利を収めた。
保科も負けてはいられなかった。
こんなところで立ち止まっている暇はない。
彼女が試合を観てくれているかどうかは分からないが、だがどちらにせよ、保科自身が彼女に恥じない選手でありたい。
まずは、チームメイトと話そう。
口下手でも、不器用でも、時間をかけて言葉を尽くし、答えを探そう。
保科は立ち上がり、部屋を後にした。
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