[11]思慕
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「タク!寄越せっ!」

鋭く名を呼ばれ、反射的に右脚の角度を変えた。
ドリブルになるはずだったボールがパスへと変わり、チームメイトの足元へと滑り込む。
一瞬で周囲を確認し、次の展開を何パターンも予測して走り込んだ。

「打たせるなっ!」
「後ろだ!来てるぞ!」

ゴール前、敵味方が入り乱れる。
絶妙なバックパスでボールが戻された。
インサイドでトラップするように見せかけて、ワンタッチで逆サイドにパス。
FWの強烈なシュートが、ボールをゴールに叩き込んだ。
ホイッスルが鳴り響く。
ゴールを決めたチームメイトが、短く叫んでガッツポーズを作った。
ユニフォームの袖で顔の汗を拭った保科の肩を、チームメイトが叩く。

「ナイスアシスト!」
「ありがとうございます」

律儀に礼を言った保科に、チームメイトは笑った。

「相変わらずだな、タク」

チームメイトは皆、保科のその生真面目さを冗談のように笑うことはあれど、気取っていると馬鹿にすることはない。
保科がチームに加入してから、二ヶ月半。
弩級の生真面目さで黙々と練習に励み、どこまでも礼儀正しく沈着冷静で、普段は物静かなくせにサッカーをしている時だけは誰よりも声を張り上げて走り回る、根っからのサッカー馬鹿。
この二ヶ月半で、チームメイトたちは皆保科のことをそう理解した。
そして皆が、お前は本当にあのプレイボーイ保科満の弟かと、揃って首を傾げたのだった。

七年前、まだ高校三年生だった保科満をスカウトしたのは、千葉にあるクラブチームだった。
満はそのチームで四年プレーし、その後、今所属している大阪のチームに移籍した。
そしてこの四月から、保科も、満と同じチームでプレーしている。
チームのホームタウンは大阪。
日本人なら誰もが知っていると言っても過言ではないほど有名な、J1のチームだ。
とは言っても加入したばかりの保科はまだ、クラブ内にあるU-23のJ3リーグ参加チームで練習をしている。
ここで成績を残し、チームの首脳陣に認められれば、本チームへの昇格もあり得るというわけだ。
目下、それが保科の最優先すべき目標だった。
満にせっつかれている、という理由もある。
チームが異なるため練習で一緒になることは殆どないが、クラブハウスで顔を合わせる機会は割と頻繁にあり、その度まだかまだかと怒られるのだ。
有難い話だが、周囲の目もあることだしそろそろ勘弁してほしいというのが保科の本音だった。

ホイッスルが鳴り、紅白戦の終了が告げられる。
毎回メンバーを入れ替え行われる対戦形式の練習は、午後の恒例メニューだった。

「よし、終わりだ!お疲れ!」
「「お疲れっしたぁっ!」」

キャプテンの号令で、一日の練習が終わる。
この後、各自着替えてからミーティングルームに集まり、たった今行った紅白戦の映像を観ながら反省会だ。
すぐ確認し、すぐ修正する。
それが、このチームの方針だった。
皆、勝利に貪欲で、僅かなチャンスも逃してなるものかと常に努力を怠らない。
新しく参加したチームのエネルギッシュさが、保科は嫌いではなかった。

プロ入りしてから、二ヶ月半。
日々は驚くほど早く、怒涛の勢いで流れていった。
新しい土地、新しいチームメイト、新しい監督とコーチ。
環境の全てが一日にして変わったのだ。
これまでの一年間を最高学年として、キャプテンとしてチームを引っ張ってきた保科が、今度はチームの新入りとして、新たなチームに食らいついていかなければならない。
当然、チームメイトは全員初対面だ。
これまでのように、中学時代から勉学と部活を共に励んできた馴染みの仲間たちとは違う。
保科の不器用な性格を熟知して、さりげなくフォローしてくれるわけではないのだ。
一から自分で、関係性を築いていかなければならない。
チームの練習自体は、体力的は面で言えば保科が覚悟していたよりも厳しくなかった。
だが精神的、また頭脳的には毎日疲労困憊だ。
所謂部活動にありがちな、ただひたすら馬鹿みたいに体力を使う練習とは訳が違う。
自らの筋力トレーニングや持久力を養う練習など、個々で取り組むのが当たり前。
チーム練習はとにかく頭を使い、いかにチームとしてプレーの精度を高めるか、その点に重きを置いていた。
だからチーム練習の前後には当然、各自個別の練習メニューがある。
朝から晩まで、見事にサッカー一色の毎日だった。
保科は一応、選手のためにチームが用意してくれているクラブハウス近くの単身者用マンションに部屋を借りているが、完全に寝るためだけの家と化している。
朝起きて走り、クラブハウスのトレーニングルームでウェイトトレーニングをし、チーム練習とミーティングに参加し、またボールを蹴り、家に帰って泥のように眠る日々。
サッカーのこと以外を考える暇などなかった。
勿論、自身のプレーについてはまだ何もかもが未熟だと理解しているが、保科はこの生活について満足していた。
過酷であることは間違いない。
プロとして、契約金を貰って、仕事としてサッカーをしているのだ。
プレッシャーも大きい、楽しいだけではない。
好きなことを仕事にするということは、その何倍も、つらいことに耐えるということだ。
それでも保科は、一日中サッカーをしていられるこの新しい生活を楽しんでいた。
これでいいと思った。
こうして夢に向かって走り続けられることを、幸福だと思っていた。

だが、そんなある日、保科はそれが自らの思い込みであったことを、理解することになる。

それは、六月の末。
Jリーグの開幕から四ヶ月、保科がプロとして、四度目の公式戦を終えた直後のことだった。
過去三度は途中交代だったのに対し、その日の試合は先発出場。
ツーアシストの働きはチームメイトや監督にも褒められ、保科自身もまずまずだったと思えるプレーが出来た。
チームも勝利を収め、満足して帰り着いた遠征先のホテル。

『よう、タク。久しぶりだな』

そこで、春に別れたチームメイトの声を電話越しに聞いた。
まだ三ヶ月しか経っていないのに、随分と久しぶりに感じる声。

「浦か」
『ああ、元気にしてたか?』
「うん」
『試合、出てるんだってな。ネットで見たぞ』

J3の試合は、テレビ中継されない。
だが、出場選手を調べることは出来るらしい。
凄いな、と浦が言った。

『今日も試合だったのか?』
「うん、今静岡のホテルにいる」
『勝ったか?』
「勝った」
『そうか、お疲れさん』

浦はその調子でしばらく保科の近況を訊ね、労った後、本題に入った。

『今日な、インハイ予選が終わったよ』

その単語に、もうそんな時期だったのかと保科は驚く。
去年までは毎年のことだったのに、練習に忙殺されてすっかり忘れていた。

『ウチが全国出場を決めたぜ』

誇らしげに、満足げに、浦が東院の結果を教えてくれる。
その報告に対し、最初に保科の口から飛び出しかけた返答は、何よりも保科自身を驚愕させた。

「せい……、もう一校は?」
『桜高だ』

そして、浦の答えを聞いた瞬間、保科はスマートフォンをきつく握り締めた。
東院と、桜高。
その結果の意味するところは一つ。
聖蹟は、予選で負けたのだ。

『俺も試合があったから、観には行けなかったんだけどな。要がいい仕事をしたらしい』

後輩の活躍を喜ぶ浦の声が、右から左へと流れていく。
保科はただひたすら黙り込み、驚いていた。
聖蹟が負けたことに対する驚きだけではない。
それよりも、自身の反応に対する驚きだ。
自らの内に沸き起こる嵐のような感情に戸惑い、スマートフォン片手に立ち尽くした。

なぜ、こんなにも胸が痛い。
なぜ、こんなにも苦しい。

東院が勝った、全国行きを決めた。
それでいいじゃないか。
聖蹟は残念だったが、昨今の東京が四強の時代と呼ばれている以上、大会の度、うち二校は必ず予選で敗退する。
ずっとそうだった。
今年も例外なくそうなった。
それだけの話だ。
それなのにどうして、こんなにも遣り切れない思いが募る。

『亜土夢が大喜びで電話してきたぜ。あいつにこんな可愛げがあるとは思わなかった。みんなの写真まで送ってきやがったから、後でタクにも送っておくな』

それから、二言三言言葉を交わして、電話は切れた。
その直後、メッセージアプリに写真が届く。
それは、決勝戦の先発メンバーだったであろう十一人が、狭い枠の中、皆満面の笑みで写った写真だった。

その瞬間、三ヶ月前に胸の底へと仕舞い込んだはずの感情が、とくりと脈打つ。
固く閉じたはずの扉に、鍵が差し込まれる。
小さく出来た隙間から漏れ出した想いが、一瞬で保科の全身を支配した。

ああ、彼女が、負けたのか。

大阪に来てからの三ヶ月間、思い出さないようにしていた。
考えないようにしていた。
実際、ハードな練習に手一杯で、彼女のことを想う時間はなかったはずなのに。
桜高に三度目の敗北を喫したチームを見て、彼女がどんな思いをしたのかと想像するだけで、保科の胸が引き絞られるように痛んだ。
あの日のように涙を堪え、俯かないよう必死で前を向いて、一人気丈に立ち続けたのだろうか。
家に帰ってから、一人でこっそりと泣いたのだろうか。
それとも、敗戦を悔やみ、自らの身も顧みず、寝る間も惜しんで試合の映像を観直しているのだろうか。

浦が嘘を吐く理由などないのに、保科は無意識のうちに、スマートフォンでインターネットの検索画面に"高校サッカー インターハイ"と打ち込み、試合結果を表示させていた。
東京予選の結果を見れば確かに、聖蹟が桜高に対し一対二で敗れたと公表されている。
正直、意外だった。
確かに、東京ビッグスリーと呼ばれたうちの一人、犬童率いる桜高は強かったが、選手層が厚いとは言い難いチームだったのだ。
犬童や成神が抜けた今年の桜高が、そこまで強いとは思っていなかった。
もしかしたら保科が把握していないだけで、大型ルーキーの獲得に成功したのかもしれない。
保科はスマートフォンをサイドテーブルに乗せ、ベッドに倒れ込んだ。

何が、彼女のことはもう忘れるだ。
何一つ、忘れてなどいなかった。
泣くまいと奥歯を噛み締めた彼女の顔を、憶えている。
チームメイトの一礼に俯いた頼りない彼女の姿を、憶えている。
黙々とベンチを片付ける彼女を守ってあげたいと思った、己の感情を嫌というほど憶えている。
満足しているなんて、嘘だ。
忘れるなんて、あり得なかった。
保科はただ、自らにそう言い聞かせただけだったのだ。
サッカーに集中したいから。
新しいチームでプロとして、東京を離れプレーするのだから。
そんな言い訳を大義名分にして、逃げたのだ。
叶うことのない想いを抱え続けるつらさに、耐えられないと思った。
彼女に会えない寂しさを抱えたままでいたくなかった。
初めて知った大きすぎる感情を持て余し、投げ出す振りをした。
想いを手放すことなど、出来るはずがなかったのに。

だって今、こんなにも苦しい。
チームを支えきれなかったと、彼女が自分を責めているかもしれないのに、何も出来ない自分がこんなにも憎く、もどかしい。

「……ミョウジさん……」

久しぶりに口にした名に、胸の奥から恋しさが溢れた。



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