我が親友の恋人様へ[1]
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春山伊鈴は自動ドアを抜けて一歩外に出るなり、凝り固まった筋を解そうと両腕を思い切り上げて身体を伸ばした。
ついでに大きな欠伸が漏れたのはご愛嬌。
夜勤明けの身体に、朝の澄み切った空気が沁みた。
どうにもこの朝日というやつは疲弊しきった目に優しくない。
伊鈴は東の空で主張する眩しい太陽を睨むように目を眇めてから、長時間立ちっ放しで鈍く痛む足を前に踏み出した。

伊鈴の勤め先である東東京総合病院は、下神町に位置する。
自宅のある西湖袋までは、電車で二十分程だ。
通常、夜勤明けであれば帰宅時は通勤ラッシュを見事逆行することになるのだが、今日は三時間程残業したため、行き交う人の数は比較的少なかった。
看護師になって、四年。
伊鈴は今、東東京総合病院の救命救急センターで働いている。
東東京総合病院は、都内では有名な医療水準の高い基幹病院だ。
患者に人気のこの病院は、実は看護師にも高待遇だと人気が高かった。
だが物事には例外というものがあるわけで。
生憎、全国的に人手不足の救命救急センターに関して言えば、医者にとっても看護師にとっても、待遇は非常に悪いの一言に尽きた。
年がら年中、残業は当たり前。
それどころか、救命医は何日も帰宅出来ないなんてこともざらだった。
医者ではなく看護師の伊鈴も、週に一度は異動願いを出そうかと考えるくらいには多忙な日々を送っている。
だがそれでも続けているのは、この仕事が好きだという単純な理由からだろう。
命に対して、一番最初に向き合う場所。
最も原始的な、死の淵から人を救うという医療。
楽しい仕事とは言えないが、誇ることの出来る仕事だった。
運ばれてきた時は重傷だった患者が、ありがとうと笑って一般病棟へと移る姿は何にも代えがたい幸福である。

伊鈴が医療の道を目指したのは、中学生の頃だった。
きっかけは間違いなく、父の病死である。
命の尊さと儚さを知り、命を救う仕事がしたいと強く思った。
医者ではなく看護師を選んだのは、母が看護師だったからだ。
年齢を重ねるにつれ、看護師を目指すにはそれなりな金が掛かると理解した時は、母の負担になるのが心苦しく、その道を諦めようとしたこともある。
しかし結局は母の強い希望もあって看護大学に入学させて貰い、伊鈴は無事国家試験に合格して看護師になった。
それからは怒涛の日々だ。
最近になってようやく救命の現場に慣れてはきたものの、まだまだ未熟者だと痛感させられることばかり。
いつだったか、医者は毎日が勉強だと医局長が言っていたが、それは看護師も同じである。
今朝運ばれてきた胸部大動脈損傷の患者も、症例自体はさほど珍しくない、何度も診たことのあるものだったのに、手術はいつになく難航した。
処置に当たった医者も戸惑っていたし、看護師たちも右往左往してしまった。
無事助けられたから良かったものの、思い返すだけで肝を冷やす手術だった。
でもこれでまた一つ、勉強したのだ。
そうやって日々を重ねて、成長していく。

伊鈴は駅前の赤信号で立ち止まり、凝った首をぐるりと回した。
ちょっと格好付けたことを考えてみたところで、人間、疲れるものは疲れる。
先程からずっと空腹を感じているのだが、生憎家に帰って食事の支度をする気力は残っていなかった。
何か食べてから帰ろうと、伊鈴は横断歩道を渡った先にある全国チェーンのカフェに足を向ける。
中途半端な時間のためか、客入りは疎らだった。
レジでホットコーヒーとサンドイッチを注文する。
先にコーヒーを受け取り、カップと番号札を持って伊鈴は店内を見渡した。
混んでいればカウンターでも良かったが、テーブル席にもいくつか空きがある。
奥のテーブル席に当たりをつけ歩き出したところで、伊鈴はふと、目に付いた男性客の姿に意識を奪われた。
どこかで見たことがある顔だ。
ボリュームのある柔らかそうな髪と、前髪から片方だけ覗く切れ長の瞳。
過去に担当した患者だろうか、それとも学生時代の知人だろうか。
とにかく、決して親しい間柄ではないのだが、なぜか記憶に引っ掛かる。
タンマツを片手で操作しながらコーヒーを飲む男性客を不躾に眺めていると、不意にその男性が、無遠慮な視線に気付いたのか顔を上げた。

「あ、」

真正面から視線がかち合った瞬間、伊鈴の脳がぴんと閃く。
知人ではないが、それは伊鈴が一方的に知っている人だった。
そして、いつか会ってみたいと思っていた人でもあった。

「あの、失礼ですが。もしかして、秋山さんですか?」

何の偶然か。
不意打ちの遭遇に驚いた伊鈴は、しかしすぐさま行動に出た。
全身の疲労感など都合よく忘れて、足早にその男性客へと近付き声を掛ける。
テーブル席のソファ側に座っていた男性客は、突然知らない女性から声を掛けられ大層驚いた様子を見せた。

「そう、ですが……?」

不審げな眼差しに見上げられ、伊鈴は慌てて自らを名乗る。

「あの、私、春山伊鈴って言います」

しかし意外なことに、ミョウジナマエの友人です、と説明する必要はなかった。
それよりも早く、

「ああ、ナマエさんの、」

男性客改め秋山氷杜は、伊鈴を見上げて小さく微笑んだ。

「ナマエから何か聞いているんですか?」
「ええ。学生時代からの親友と伺っております」

見た目通りの穏やかな声音と、丁寧な口調。
伊鈴は、その雰囲気から拒絶が感じられないのをいいことに、好奇心を満たしてみたくなった。

「ここ、ご一緒してもいいですか?」
「どうぞ、構いませんよ」

随分と図々しい提案だったのに、秋山は穏やかに微笑んだまま頷いてくれる。
良い人なのだなと、伊鈴は思った。
漠然とはしているが、第一印象は悪くない。

「今日はお休みですか?」

伊鈴は、セプター4の制服を知っている。
だが目の前の秋山は私服姿だった。
白いVネックのシャツに、グレーのテーラードジャケットを合わせている。

「いえ、訳あって私服ですが、この後仕事なんです」
「あ、すみません。お仕事前に邪魔してしまって、」
「まだ時間は充分にあるので大丈夫ですよ」

そう言って、秋山はタンマツをジャケットの内側に仕舞った。

「春山さんは、お仕事帰りですか?」
「あ、はい。当直明けで」
「そうですか、お疲れ様でした」
「ありがとうございます」

どこか探り探り、でも雰囲気は穏やかに会話が進んでいく。
そうこうしているうちに、伊鈴が頼んでいたサンドイッチを店員が運んで来た。
番号札と引き換えにトレーを受け取る。

「すみません、目の前で」

空腹には勝てず、伊鈴はサンドイッチに齧りついた。
しかし、聞きたいことも山ほどある。
あのナマエが、中学時代からずっと恋愛になんて欠片も興味を示さず淡白だったナマエが、二年も交際しているという相手が目の前にいるのだ。
先月の頭、久しぶりに会ったナマエから恋人の話を聞いて以来、伊鈴はずっと秋山に会ってみたいと思っていた。
それがまさか、こんなに早く会えるとは思っていなかったので気ばかりが急いてしまう。

「あの、お弁当、作って貰いました?」

だが、いくら動転していたからといって、何もそんなことから訊ねなくても良かっただろう。
夜勤明けのテンションとはつくづく恐ろしい。

「はい?」

案の定、秋山は不思議そうに首を傾げた。
年齢は伊鈴より一つ下と聞いているが、こうして見ると、もっと年下のように感じられる。

「こないだナマエに会った時、言ったんですよ。ちゃんとお弁当くらい作ってアピールしろって」
「はは、そういうことですか。手作りの弁当を頂いたことはないですね」

やっぱり、と伊鈴は思った。
珍しく長続きしているとはいえ、薄情なところは変わっていないらしい。
ただでさえ仕事が仕事なのだから、女らしいアピールは必要不可欠だろうに。
後でメールしておこう、と思いながらサンドイッチを食べていると、秋山が信じられないようなことを言った。

「でも、いつも食事は作って頂いているので」
「………は…………?」

いつも?食事を?あのナマエが?

「自分も作りますが、交代制というか。月の半分は夕飯をご馳走になっていますよ」

その瞬間、伊鈴の中で様々なものが崩壊した。
まずは、長年に渡って築いてきた親友のイメージ。
そしてそこから勝手に導き出していた、ナマエと秋山の関係性。

「……ナマエが、貴方に、手料理を振る舞うんですか?」
「はい」
「………私、ナマエが人のために料理をするなんて初めて聞きました」

そう言ってから、一瞬、しまったと思ったのだ。
どんな内容であれ、これは過去にいた男の存在を仄めかすものではないか、と。
しかしどうやら秋山に引っ掛かったのは、その部分ではなかったらしい。

「初めて……?」

ぽつりとそう呟いた秋山の、髪から少しだけ覗く耳が赤くなっていた。
ああこれは別の意味で言わない方が良かったのかもしれないと、気付いても今更手遅れだ。
ごめんナマエと無責任に内心で謝罪し、伊鈴は笑った。

「きっと、初めてのはずですよ。あの子、彼氏のために何かするなんてまずなかったから」

本人のいないところで話すのは、ルール違反かもしれない。
だが秋山が、あのナマエがわざわざ食事を作ってあげるほどの恋人が、こんな些細なことで照れて嬉しそうにする様子を見てしまっては、つい揶揄したくなるというものだろう。
照れ臭そうに視線を彷徨わせる秋山は、なんというか、男なのに可愛らしく思えた。




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