致命的安寧[1]
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流石に、たとえばどこかの誰かのように、鍛錬が趣味だなどというストイックなことは言わない。
だが、早朝の道場にぴんと張り詰めた空気を竹刀で断ち切る瞬間は、ナマエにある種の満足感を少なからず齎した。
目覚めの運動として悪くないと思える程度には、ナマエも稽古が嫌いではない。
ストレッチと軽いランニング、その後に筋トレと剣術稽古で約一時間。
決して長い時間ではないが、現場に出動する機会が減った今日この頃、身体を鈍らせないようにするには丁度良い運動だった。
以前は空き時間に青の力をコントロールする訓練を行っていただけで、あまり真面目に身体を動かしてはいなかったのだが、生憎とこれからはそういう訳にもいくまい。
石盤が失われた今、その青の力はいつ体内から消滅してしまうのか分かったものではないのだ。
ある瞬間唐突に、残されたストレインや他のクランズマンらと共に一斉に異能を失うのであればまだ良いが、恐らくそう綺麗さっぱりとは終わらないだろう。
ストレインよりも先に異能を失ってしまったら、他の隊員よりも先に異能を失ってしまったら。
そういった可能性がある中、戦う術として宗像から与えられた力に依存するほどナマエは能天気ではなかった。
だからこそ一ヶ月程前から、それこそ国防軍にいた頃のように、再び自身の身体を鍛え始めたというわけだ。
と言ってもナマエの専門は頭脳労働であり、肉体労働の方はおまけのようなものである。
ゆえに非番の日に一日中道場にこもって竹刀を振るような体力はないので、こうして毎朝、出勤前に軽く身体を動かすようにしていた。

午前八時。
ナマエはハーフパンツにTシャツという格好で自室に戻った。
トレーニングが普段より少しばかり遅く終わったのは、今日が非番だからだ。
何に急かされることもなく、ナマエはのんびりとシャワーを浴びて汗を流した。
特に用事のない休日の朝というのは優雅なもので、目一杯に自由を満喫出来る。
まずはカフェオレを淹れて、先日購入したナマエが長年愛読している著者の新刊を読もうか。
いや、せっかく天気が良いからシーツを洗濯するのが先だろうか。
そのようなことを呑気に考えながら、濡れた髪をバスタオルで拭く。
乾かしたきりまだアイロンを掛けていない秋山のワイシャツがハンガーに掛かっていたので、勝手に拝借して羽織った。
ボタンをいくつか留めて余った袖を捲れば、サイズの違いによってワンピースになる。
一人きりの室内だからこれで充分だろうとラバトリーを後にしたナマエは、その途端、玄関ドアの鍵が外側から開けられる音を耳にし「あ」と思った。
短い廊下を振り向いた先、ドアが勝手に開かれる。
そこに立っているのは言わずもがな、唯一この部屋の合鍵を持つ恋人の姿だった。
ドアノブを引いた制服姿の秋山と、頭に被ったバスタオルで髪を掻き混ぜながら振り返ったナマエの視線がぱちりと合ったその瞬間、ナマエが直前まで考えていた休日の朝のプランはご破算だ。

「……おかえり?」

全ては、秋山が当直だったことを失念していたナマエのミスだろう。
珍しくも大きな音を立ててドアを閉めた秋山が鍵をかけるなりブーツを乱雑に脱ぎ捨て、大股で勢い良く歩み寄って来た。
襲い掛かって来た、と表現した方が正しいかもしれない。
とにかく物凄い勢いで抱き竦められ、この後の展開を悟ったナマエはシーツの洗濯も期待の新刊も諦めて身体から力を抜いた。

「なんて格好をしてるんですか……!」

責められる謂れは、ないはずである。
自分の部屋なのだから、少しくらい下着なしのワイシャツ一枚で風呂上がりの開放感を満喫したって罰は当たるまい。
ワイシャツを勝手に着たことは悪かったが、それも、二人の関係性を鑑みれば怒られるようなことではないだろう。
だがそれらの弁明は一言も声にならず、全て秋山の咥内に消えた。
性急な口付けの後はあっという間に抱え上げられて、気が付けばベッドの上である。
当直明けのくせに、下半身も含めて随分と元気な秋山が、ナマエの首筋に顔を埋めた。

「いい匂い……」
「シャワー浴びた後だし」
「それ、誘ってるんですか?」
「違うって。汗掻いたから、」

キスによって、言葉は途中で遮られる。
質問しておいて答えを聞かない身勝手さを咎めるべく背中を叩けば、唇を離した秋山が困ったように苦笑した。
どちらかと言うと困っているのはナマエの方である。

「でも、どうして俺のシャツを?」
「着替え用意してなくて。これがハンガーに引っ掛かってたから」
「俺が来るのを知っていて?」
「当直なの忘れてたんだって」

自分で言っておいて、無理のある説明だと思った。
秋山はどうにも、ナマエのことを万能だと過信している節がある。

「忘れていた?貴方が?」

案の定、下手な言い訳を追及するような声音で問われ、ナマエは同じ言葉を繰り返した。
事実なのだから仕方ない。
秋山がナマエをどういう生き物だと思っているのか定かではないが、所詮ただの人間なのでナマエだってうっかり失念することもあるのだ。

「俺には、わざと誘っているようにしか見えないんですが?」

勘違いも甚だしい。
だが、その誤解を解こうが解くまいが、結果やることは変わらないのだ。
ならばもうどちらでもいいかと、ナマエは流れに身を任すことにした。
シーツから頭を持ち上げ、今度はナマエの方から口付ける。

「ーーー やっぱり」

秋山が、それはそれは嬉しそうにくしゃりと相好を崩した。
そんな風に満面の笑みを見せられては、文句も言えなくなるというものだ。
常日頃、どちらかと言えば笑顔は控えめな男が稀に浮かべる子どものような無邪気な笑みが、ナマエは嫌いではなかった。
一度離れた唇が再び重なる。
早速ワイシャツの内側に滑り込んで腰を撫でる大きな手の感触を受け止めながら、ナマエは顔を傾けて深くなるキスに応えた。
自分もそうだが、よく飽きないものだと半ば感心する。
秋山と交際を始めてから、もう二年以上が過ぎた。
恋人としてセックスの頻度が高いのか否か、適切な比較対象がないため判断出来ないが、主観的な意見を言えば随分と多く身体を重ねた気がする。
キスに限っていえば、それこそ数え切れないほど何度もした。
今更、新鮮味などというものは互いに感じていないだろう。
ナマエは秋山のキスの仕方をすっかり覚えてしまった。
勿論毎度必ず同じ手順というわけではないが、要所要所で次はこうだろうと簡単に予測出来る程度には、その癖を知っている。
流石の秋山とてまさか、昔のようにキスをするだけで泣きそうなほど感動するなんてことはないはずだった。
慣れ切った相手との、慣れ切った行為。
それでも、飽きたから嫌だとナマエが拒否することはなかった。
キスをされれば必ず応えるし、時にはナマエの方から奪いたくなることもある。
その感触も、その味も、知り尽くしているのに。
過去に交際が二年以上続いた例のないナマエにとって、この感覚は不思議なものだった。
生命活動を維持する上で必要不可欠な食事のようだとは言わないが、一日に何度か飲みたくなるカフェオレのような嗜好性。
ナマエは秋山の下唇をぺろりと舐めながら、慣れ親しんだ味を確かめた。



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