届かない想い[1]
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八歳の時に、両親が離婚した。
ナマエにとって、父は普段あまり家にいなかったがたまに顔を合わせれば様々な話を聞かせてくれる穏やかな人だったし、母は料理上手で美しく優しい人だった。
ナマエは二人のことが大好きで、そんな二人と共に居られる家が大好きだった。
まだ幼かったナマエにとってその暖かい空間は当たり前で、失われる可能性など考えたことすらなかったのだ。
だが、その日常はある日唐突に壊れてしまった。
ナマエが八歳の誕生日を迎えた数日後、都内で珍しく雪が降ったその日、母は家を出て行った。
車に段ボールを数個積み込み、大きな鞄を持って玄関に立った母を見て、ナマエはどこかに旅行に行くのかと訊ねた。
母は何も答えず、泣き出しそうな微笑を浮かべて小さく手を振っただけだった。
その日の夜、「おかあさんかえってこないね」と熊の縫いぐるみを抱き締めたナマエを、父はその縫いぐるみごと纏めて強く抱き締め、一言「ごめんな」と呟いた。
その瞬間、ナマエはもう二度と母が帰って来ることはないのだと本能的に理解し、そしてそれっきり、父の前で母の話をすることはなかった。
そうして始まった父と娘の二人暮らしは、相変わらず仕事に追われた父があまり家に帰って来なかったため、ただ静かに坦々と過ぎていった。
ナマエは毎月父から渡される金で買い物をし、自分で食事を用意して、洗濯をして掃除をして、一人で宿題に取り組み、学校で受け取った保護者宛のプリントの処理に悩んだり先生に困った顔をされたりしながら、あまり笑わない子どもになった。
両親を恨んだことも、自らの境遇を不幸だと思ったことも、他者を羨ましいと感じたこともない。
ただ単に、当時八歳にしてナマエは永続するものなどないということを知り、大切なものは唐突に失われるということを知り、そして一人で生きる術を知った。
それだけのことだった。

その後の約二十年間で、果たしてナマエはどれほどのものを失っただろうか。
父の再婚を機に生まれ育った家を失い、国防軍に入隊してからは多くの仲間の命と、守らなければならなかったのに叶わなかったたくさんの命を目の前で失った。
明日は我が身かもしれないという環境の中、取り零すまいと必死で伸ばした手の指先をすり抜けていく後悔を幾度も繰り返して、ここまで生きて来た。
ある人はナマエを見て、何があっても取り乱さない優秀な人間だと言った。
ある人はナマエを見て、血も涙もない冷血漢だと言った。
それらの是非に、ナマエは欠片の興味も持ち合わせてはいない。
確かなことはただ一つ、ナマエは、何かを失うということがとても嫌いだった。


目の前で激しく燃え盛る炎に、指揮情報車から飛び降りたナマエは一瞬立ち竦んだ。
黒煙立ち昇る炎の中には、恐らくつい先程まで建物だったはずの瓦礫がある。

「ミョウジさん!!」

殆ど絶叫しながら走り寄ってきた隊員の顔は真っ青だった。

「状況を説明して」
「それがっ、建物を包囲したところで急に爆発が起きて、」
「爆発?中で?」
「はい、その通りです!」

ナマエは、元々小さな工具店だったという現場に視線を戻す。
遠くから、サイレンの音が急速に近付いて来ていた。

「建物の内部に人は?」
「ターゲットのストレインが二名と、店主である男性が一名だと思われます!」
「他に誰もいないね?」
「把握している限りではおりません!」

ナマエは舌打ちの代わりに踵を鳴らし、サーベルの柄に手を掛ける。

「ミョウジ、抜刀」

短い警告音と共にロックが外れ、ナマエは刀身を引き抜いた。

「ミョウジさん?」
「第一小隊は封鎖線を維持。消防隊が到着するまで、誰一人中に入れないこと。いいね?」
「はっ、はいっ!あの、ミョウジさんは?!」

上擦ったその問いには答えず、瓦礫へと歩を進める。
肺の奥まで焦がすような熱気に顔を顰めながらも、ナマエはサーベルを起点として自らを覆うような球状のシールドを展開した。
その内側だけは、元の秩序を保つことが出来る。

「危険ですっ!」

背後から追ってくる悲鳴のような制止を無視し、ナマエは炎の中に足を踏み入れた。
一瞬でも集中力を欠けばシールドが破れ、ナマエは炎に身を焼かれることになる。
そもそもこのシールドは、そう長い時間に渡って展開し続けられるような代物ではなかった。
ここに王である宗像がいれば話は別だが、サンクトゥムの庇護がない状態ではナマエといえども長くは保たない。
せめて消防隊が到着する前に、店主だという男の居場所だけでも突き止めて誘導出来るようにしておきたいと、ナマエは炎と煙に満ちた空間で目を凝らした。


十月の御柱タワー襲撃事件以降、セプター4はかなりの変則シフトで稼働している。
例えば今日は、宗像が御柱タワーに、淡島と伏見が屯所にそれぞれ待機し、二班に分かれた第四小隊がその護衛にあたっていた。
特務隊の面々は二人から三人でチームを組み、各々が撃剣機動課の隊員数名を引き連れて各地で起こったストレイン犯罪の対応に回っている。
その他の隊員達は街に散らばり、jungleの下位ランカーによる事件を取り締まっていた。
そんな中、ナマエは指揮情報車を拠点としてjungleの事件を追い、全体を俯瞰で見ることでその規則性や相手の狙いを見定めようとしていたのだが、急遽発生した新たな立て篭り事件に人手が足りなくなって加勢に向かったのだ。
コモンクラスのストレイン二名が、木場七丁目の工具店に立て篭ったという情報だけを得て現場に来てみれば、まさかの大火災である。
それがストレインの異能なのか、それとも別の要因によるものなのか。
少なくとも、かなり大きな爆発が起こったことは、この瓦礫の山が証明してくれていると言えるだろう。
移動中に調べた情報によればこの建物は本来二階建てのはずだが、どこまでが一階でどこからが二階なのか、もう判別出来ないほどだった。


捜索を開始してから、どのくらいの時間が経っただろうか。
恐らく一分にも満たない時間、しかし体感的には五分以上も探し回った末に、ナマエは生き物のように燃え盛る炎の奥に倒れている人影を見つけた。
不安定な足場に気を遣いながらも急ぎ足で近付けば、それが高齢の男だと分かる。
指揮情報車の中で確認した店主の顔と一致することを確かめ、ナマエはそのまま男の全身に視線を滑らせた。
幸いなことに男が倒れている場所は火の手が回っておらず、男の身体に目立った外傷は見られない。
服や髪の一部は焦げているが、大きな火傷はなさそうだった。
しかし意識がないのか、目を閉じたままぐったりと横たわっている。
ナマエは周囲を見渡して即時的な危険がないことを確かめ、一旦シールドを解除すると、男の側に跪いてから二人を囲む形で再度シールドを展開した。

「セプター4です、分かりますか?!」

煤に汚れた男の顔を見下ろして声を掛けるが、反応はない。
ナマエは男の首筋に手を当てて脈を確かめようとし、それが全く触れないことに気付いた。
急いで胸元と口元にそれぞれ耳を寄せてみるが、呼吸もしていない。
考え得る最も確率の高い原因は一酸化炭素中毒だろうと即座に推察し、ナマエは男の腕を自らの肩に回して立ち上がった。
この場で出来る有効な処置は殆どないし、いずれすぐに火が回ってくる。
最優先すべきは避難だと判断したナマエは、自らより大きな男の身体を引き摺りながら、元来たルートを辿った。
炎は弱まる気配を見せずにのたうち回り、二人に襲い掛かる。
ナマエは熱気と煙に激しく咳き込みかけ、慌てて自らの肩に口元を押し付けた。
男を支えるべくサーベルを仕舞ったせいで力を放出するための媒介がなく、辛うじてシールドは展開出来ているものの、先程までよりもその精度は明らかに低い。
汗で滑る手を何度も握り直して男を背負い、一歩一歩確実に前へと、ナマエは全身の体力を全て捻り出すつもりで外を目指した。

そうしてようやく瓦礫の中から抜け出したナマエはそれを認識するなり一瞬で力を失い、弾け飛んだシールドを横目に地面へと崩れ落ちた。
背負っていた男の下敷きとなって激しく咳き込むナマエの元へ、救急隊員が血相を変えて駆け寄って来る。
あっという間に男が担架に乗せられ、自身もまた抱え上げられそうになったところで、ナマエは力なくそれを制した。
一般人なら無視されるであろうその行為も、セプター4の制服を着ていれば有効になる。

「私は問題ありません。まだ仕事が残っています」
「しかし!その身体では、」

言い募る職務に忠実な救急隊員に敬意を表して目礼し、ナマエは自力で立ち上がると担架で運ばれて行く男を追った。
切羽詰まった声音の指示と報告が担架の上を飛び交い、男は救急車に乗せられる。
緊迫した空間が徐々に色を失くしていくさまを、ナマエは棒立ちになって見ていた。
ナマエはその道のプロではないため医療用語の全てが理解出来るわけではないが、それでも国防軍時代にある程度のレクチャーは受けている。
その知識と、目の前に流れる空気、隊員達の表情、そして先程まで触れていた男の身体、それらを総合して今がどんな状況なのか理解出来ないほど、ナマエは馬鹿でも楽観的でもなかった。
救急車のバックドアが閉まる直前、男の頭側に座っていた隊員がナマエに向かって申し訳なさそうな表情を浮かべて小さく頭を垂れる。
それが、答えだった。



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