華奢な身体の小さな手[1]
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最初の引っ掛かりは、朝出勤してきたナマエの顔を見た時だった。
いつもより若干、化粧が濃い気がしたのだ。
といっても、職場に不相応だとかそういうことではない。
ただ、普段よりも僅かにファンデーションが厚く塗られているように見えただけだった。
秋山の気のせいかもしれない。
そもそも秋山は、女性の化粧について詳しいとはとても言えない。
その時は、たまたまだろう、と秋山はあまり気に留めなかった。

しかしその後、秋山はナマエの挙動から徐々に違和感を感じ取っていった。
ふとした仕草、誰かに話し掛けられた時の反応、言葉の選び方。
そのどれもに、遊びが足りないのだ。
決して、普段の態度を不真面目だと言うつもりはない。
ナマエの仕事はいつも完璧と言って差し支えないクオリティだ。
だが、そこには必ず飄々とした余裕があるのが常だった。
先ほど日高の盛大なミスを発見した時、ナマエは「ん、これ訂正」と書類を突き返しただけだったが、普段ならば「日高ぁ。デスクとお友達になる前にこっちどうにかしてくんないかなあ」とでも言っただろう。
やはり、何かがおかしいのではないか。
些細な違和感が積もり積もって、天秤が疑惑から確信へと傾いていく。
最後の重石となったのは、終業直前にナマエから秋山へと回された書類にミスがあったことだった。
ミスといっても大した問題があるものではなく、単なる漢字の誤変換だ。
しかし普段のナマエはそういった初歩的なミスを絶対に犯さない。
秋山は、書類を片手にナマエのデスクへと近付いた。
データは共有フォルダに入っているので、秋山が訂正して再度印刷すれば何の問題もない。
ナマエにわざわざミスを指摘する必要もない。
だが秋山は、ナマエに対して感じる違和感を放置することが出来なくなった。

「ミョウジさん」

キーボードを叩いている後ろ姿に声を掛ければ、ん、とナマエが首を捻る。

「……何か、ありましたか」

秋山は僅かに声を潜めて問いかけた。
何の話だ、と首を傾げたナマエに手にした書類を見せて誤変換の箇所を指し示す。
さっと視線を走らせたナマエは僅かに驚いた顔になり、やがて諦めたように苦笑した。

「ごめん、すぐ直す。何でもない」

その返答が、決定打となった。
普段のナマエは、質問に対して何でもないとは答えない。
その虚実に関わらず、必ずそれ以上相手に踏み込ませないための事由を示すのだ。

「何を隠してるんですか?」

秋山はさらに一歩ナマエに近付き、その顔を見下ろす。
やはりいつもより若干濃い化粧を施された顔、控えめではあるものの珍しく塗られた口紅。

「人聞き悪いなあ」

そう言って秋山の手から書類を引き抜いたナマエの指先に、秋山ははっとして焦点を当てた。
僅かに火照っているのか、肌がいつもより赤みを帯びている。

「……もしかして、暑いですか?」

室内はどちらかと言うと若干寒いほどだ。
秋山は徐にナマエの額に手を伸ばした。
反射的に身を引こうとしたナマエを椅子の背に押し付け、掌を額に当てる。

「あ、っつ……!ミョウジさん、これ熱ありますよ!?」

触れた皮膚は、驚くほどの熱を放出していた。
手で触っただけでも、明らかに高熱だと分かる。
違和感の正体はこれかと、秋山は唇を噛んだ。
こんなことなら、朝の時点で確かめておくべきだった。

「早く医務室に行って薬、」
「秋山」

慌てて早退を促す秋山の声を、ナマエが静かに遮る。

「定時で上がるから。あと十五分、黙ってて」

無理をしていることが明白な、しかしだからこそいつもよりも鋭い視線。
数秒間の見つめ合いに白旗を振ったのは秋山だった。

「……分かりました。その代わり、一分の残業も認めませんからね」

ん、とナマエが頷くのを確認し、秋山は自分のデスクへと戻った。
ナマエはまるで何事もなかったかのように、再びキーボードを叩き始める。
その背を見つめながら、まるで野生の動物みたいだ、と思った。
肉食動物は子供や老体、そして体調不良の個体を獲物として狙うことが多いという。
抵抗が少ない分、効率が良いのだろう。
だから自然界の動物は、自らの体調が悪いことを決して誰にも悟られないように必死で隠すそうだ。
反対に、人間は体調が悪いと自分に甘くなり、人を頼りたがる生き物だが、ナマエはそうではないらしい。
まるで動物のようなその考え方は幼少期に培われたものなのか、それとも国防軍時代に叩き込まれたものなのか。
こんな時でも甘えてくれないのかと、秋山は小さく嘆息した。

もちろん秋山は、体調が悪かったとしてもナマエがそう簡単に欠勤する人でないことは理解している。
これまで、そんな場面に遭遇したこともない。
細かな規律を然程重視しないくせに、そういうところでナマエは自分に厳しかった。
しかしせめて恋人にくらいSOSを発信してくれてもいいのでは、と思うのは秋山の我儘なのだろうか。
朝の段階で体調が優れないと教えてくれていれば、巡回も代わったし仕事も手伝えたのに。

いや、気付けなかった俺のせいだよな。

秋山は遅々として進まない時計の針を睨み付けながら、もう一度溜息を吐き出した。


風邪の原因は、考えるまでもなく昨日の大雨だろう。
真冬の、雪になりきらない雨ほど厄介なものはない。
ナマエと布施は巡回中に突然雨に降られ、急いで帰投しようとしたところでストレイン事件に巻き込まれるという散々な目に遭い、ようやく屯所に帰着した頃には頭の天辺からブーツの中まで全身ずぶ濡れで凍えていた。
すぐさま風呂に入って着替えたらしいが、どうやら手遅れだったらしい。
この分ではもしかしたら、今日非番の布施は部屋で唸っているのだろうか。
そちらの様子も確認した方がいいのかもしれない、と考えながら、秋山は定時を待った。




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