正しい距離の縮め方[1]
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壁紙とカーテンとベッドシーツを、全て新しいものに取り替えた。
色も、質も、以前のものと新調したものとで差異はない。
新しい、だが全く同じものに交換した。
壁紙については、宗像を通さず業者を手配するのに苦労した。
だが、やってやれないこともなかった。
そうして出来上がった、見た目は何一つ変わっていないのに、新しい部屋。
変わったのは、煙草の匂いがしなくなったという、ただその一点だけだった。

行儀悪くローテーブルに乗ってカーテンを付け替えたナマエは、一新された部屋を見渡し満足した。
古いカーテンとベッドシーツは、ゴミ袋にまとめて押し込む。
拭き掃除は完璧。
これで、煙草の匂いは完全に消えた。

以前のナマエならば、こんな面倒なことは絶対にしなかっただろう。
らしくない行動の要因となったのは秋山だった。
秋山が、この部屋に入る度、ほんの僅かに眉を顰め、でも何かに堪えるように唇を引き結ぶから。
その時に何を考えているのか、分かってしまったから。
ナマエはこの部屋から、宗像を彷彿とさせるものを全て取り払うことにしたのだ。
わざわざそんなことをしなくても、と思わなかったと言えば嘘になる。
だが数日前の、ナマエがドン引きするほどに泣いた秋山を思い出すと、なぜか身体が勝手に動いた。
結局、ふと思い立ったその日のうちにナマエは壁紙張替えのリフォーム業者を手配し、屯所の備品庫から新しいシーツとカーテンを引っ張り出してしまった。
秋山に、何を言われたわけでもない。
ナマエ自身でも驚くほどの、能動的な行動だった。
男は女の涙に弱い、とはよく言ったものだが、その逆もまた然り、ということだろうか。
しばし思案して、ナマエはすぐにその考えを捨て去った。
とんでもない。
今年二十五になる男の涙と鼻水に塗れた顔など願い下げだ。
他の誰がそんな顔を見せたとしても、ナマエは鬱陶しいと思いこそすれ、情など沸かなかっただろう。
それが、秋山氷杜という男だったから、ナマエは動いたのだ。

絆されているな、と思う。
数ヶ月前、付き合って下さいと半ば懇願された時には想像もしていなかった展開だ。
だが、それを嫌だとは思わなかった。
むしろ、少しだけ気分が良い。

その気分の良いままに、久しぶりに料理でもしようかと思った。
ナマエは元々、一通りの家事が不得手ではない。
特別好きということもないが、必要に応じて掃除も洗濯もする。
料理に関しても、決して嫌いではなかった。
頭に超が付くほど美味しい食事が作れると思うほど自惚れてはいないが、たとえば寮の食堂で提供されるレベルの一般的に美味とされる家庭料理程度なら簡単に作ることが出来る。
ただ、セプター4という組織、特に特務隊は超過勤務、時間外出動、変則シフトの三点セットだ。
正直、面倒な案件が重なって多忙な時期は、部屋に戻ってもシャワーと着替えと明らかに不足な睡眠を何とか確保するのが手一杯で、わざわざ料理をする時間と体力の余裕などない。
そんな状況では気が付けば冷蔵庫の中身が全て腐敗していました、なんてこともざらに起こり得るため、部屋の簡易冷蔵庫には精々飲み物しか常備していない。
すると仮に時間が空いたとしても、わざわざスーパーまで食料品の買い出しに行くのが手間に思え、結局食事は食堂や徒歩三分のコンビニ飯で済ませてしまう。
以上の理由から、ナマエは滅多に料理をしない生活に馴染んでしまった。

だが、たまにはいいかもしれない。

そう思わせるのも結局は脳裏に浮かぶ男の顔で、ナマエはいよいよ自分の絆され具合に呆れた。
時刻は午後三時を少し回ったところだ。
残業や緊急出動がなければ、秋山はあと三時間ほどで仕事を終えるだろう。
それを、わざわざ食事を用意して待っていよう、だなんて。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
頼まれてもいない、そもそも秋山ならばナマエにそんなことを依頼するなんて万に一つもあり得ない。
それなのに、そうしたい、だなんて。
何がそんなに自分を急き立てるのか、ナマエには分からなかった。

部屋のリフォームと買い出しと料理で、非番が一日潰れた。
読みたかった本は一頁も進まなかったし、加茂に借りたDVDは紙袋に入ったままデスクの上だ。
一体何をしているのか、我に返るといよいよ馬鹿らしく思えてくる。
こんなこと、これまでの人生で一度もしたことがなかった。
誰かのために、という名目で自ら行動したり、勝手に食事を作って、剰え帰りを待つなんて。
そんな経験は、一度もなかった。
そんなことをしたいと思える相手は、一人もいなかった。

煙草の匂いが消えた部屋に、その代わりとばかりに漂うのは、空腹を刺激する煮物と白米の炊ける匂い。
秋山はいつものごとく律儀に退勤を知らせるメールを送って来るだろうから、それを確認すればさらに焼き魚の匂いが追加されるだろう。
秋山は、どんな顔をするだろうか。
いつものような切なそうな表情ではなく、綻ぶような笑みを見せてくれるだろうか。
それを想像するだけで今日一日の労力がちゃらになるなんて、随分と都合の良い話だ。
新しいシーツの上に放り出していたタンマツの着信を見て、ナマエは苦笑した。


結論から言えば、ナマエの予想は見事に外れた。
退勤後、一度自室に戻って私服に着替えてからナマエの部屋を訪れた秋山は、ナマエが食事を作って待っていたと知るなり、笑うを通り越して泣いたのだ。

「……は?……ちょ、秋山?」

靴を脱ぎ、キッチンを覗き込んだかと思いきや泣き崩れた秋山を、ナマエは唖然と見下ろした。
ナマエとしては、驚きつつも嬉しいと笑ってくれれば、それで良かったのに。
手料理というアイテムは、どうやら秋山に必要以上の効力を発揮してしまったらしい。
だからといって、普通、泣くだろうか。
ナマエに普通を説かれたくなどないだろうが、それにしてもである。
ひくりと喉を鳴らして震える秋山を眺め、面倒な奴、と思わなかったとは言えない。
だが、だったら今すぐ部屋から叩き出したいかと問われれば、答えは考えるまでもなく否だった。
仕方ないから今着ているそこそこ気に入りのシャツを涕洟に献上しようかと思える程度には、悪くない気分だった。

「お疲れ、秋山」

正面に回り込んでしゃがみ込み、感動なのか何なのか、正確な理由は分からないが打ち震える秋山の背に腕を回す。
恋人というよりも、まるで幼子をあやす母親の図だが、こればかりは仕方がないだろう。
啜り泣きながら、途切れ途切れに耳元で伝えられたのは「すみません」と「ありがとうございます」だった。

結局、凡そ五分間は、そうして秋山を慰めていたと思う。
ふと鼻についた焦げ臭い匂いに、ナマエは意識を背後に逸らした。
立ち上がり、火を止めたところで時すでに遅し。

「あーー……うん、まあ、そうなるよね。……ごめん秋山、鯖焦げた」

魚焼きグリルを覗き込んでの報告に、顔を上げた秋山がようやく笑った。








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