ずっと、この日を待っていた制服を脱ぎ、部屋着ではなく外出用の私服に着替えた。
鏡の前で無意識に全身をチェックしてしまい、馬鹿じゃねえの、と舌打ちをした。
だが、寒くなり始めた夜の街を一人歩く道すがら、僅かに感じる高揚を認めないわけにはいかなかった。
からん、と優しい音が鳴る。
「………どうも、」
かつて行き慣れたバーではない。
あの場所とは比べものにならないほど静かで落ち着いた、だが匂いだけは少し似ている店だ。
伏見がぼそりと挨拶を零せば、カウンターの向こうで女が微笑んだ。
「いらっしゃい」
店内に、さっと視線を走らせる。
他に客がいないと分かり、安堵した。
小さく沸いた喜びなど曖にも出さず、カウンターに近付く。
女の視線が、伏見をスツールへと促した。
「来るのはお勧めしないって、言わなかった?」
恐らく、一人で飲んでいたのだろう。
女が、カウンターに置かれたグラスを伏見の視界から隠すように引き寄せた。
ふ、と口元が緩むのを自覚する。
この日をずっと、待っていたのだ。
「……俺、この間誕生日だったんですよ」
カウンターに肘をつき、視線を斜め上に固定する。
伏見の目に、女の意表を突かれたような表情が映った。
「ハタチ、ですよ」
唇を歪めて笑えば、女が静かに笑った。
二十歳の誕生日を迎えたからといって、何が変わるわけでもない。
十八歳から十九歳になった時に何も変わらなかったように、唐突に大きな変化が訪れるわけではない。
だがそれでも、法律的なボーダーラインは越えたのだ。
「そう、おめでとう」
弧を描いた唇から、柔らかな音が降ってくる。
伏見はどーも、と呟き、女の背後に視線を向けた。
「酒、飲ませて下さいよ。約束でしたよね」
バーテンダーというのは、皆そういうものなのか。
女も、伏見がかつて通っていたバーのマスター同様、未成年には一滴たりとも酒を提供しなかった。
「そうね、何がいい?」
伏見が嘘をついた可能性だってあったのに、女はそれ以上何も追及しなかった。
どうやら、伏見がジャケットのポケットに忍ばせたセプター4の身分証明に出番はないらしい。
「任せますよ。俺、初めてで分からないんで」
そう答えれば、女は少し意外そうに目を瞠った。
最初の飲酒がバーというのは、珍しいことなのだろう。
普通は家で、コンビニに売っているような缶チューハイやビールを飲むものなのか。
だが伏見にそんな選択肢は存在しなかった。
最初はこのバーで、と決めていた。
そもそも伏見は、酒というものに対して執着や憧憬、または興味があったわけではない。
だから、この店以外で飲む意味などないのだ。
「なら、最初は軽いものにしようか」
任せると言った手前、伏見に異論はない。
伏見自身、己のアルコールに対する耐性がどのくらいのものか知らないのだ。
初っ端から酔い潰れる、などという失態は避けたかった。
「はい、どうぞ」
だが、目の前に差し出されたタンブラーを見て、胸の奥がちり、と焼ける。
氷と、底に沈む深い赤色。
グラスの上に向かうにつれてその赤は少しずつ薄まり、最後にはスライスレモンが添えられていた。
一見したところ、ジュースと何ら変わりない。
マドラーで何となく混ぜてから一口飲み込んでみても、伏見が想像していた酒とは程遠い口当たりだった。
「……これ、何ですか?」
炭酸と、果実の香りが喉を滑り落ちていく。
少し高級な炭酸飲料、くらいの感覚しか持てなかった。
「カシスソーダ」
そして、返された答えに思わず唇を噛む。
それは、酒に詳しくない伏見でも良く聞いたことのある名称だった。
居酒屋のドリンクメニューやコンビニの陳列棚によく並ぶ、アルコール度数の低いカクテル。
まるでジュースのようなそれは、伏見の中にあった高揚感や期待感を急速に奪っていった。
別に、格好良いと思っていたわけではない。
ただ、先ほど隠されたグラスの中身は、HOMRAでいつも周防や草薙が飲んでいたものと似ていた。
越えられない壁、縮まらない距離。
二十歳という一線を跨いでも、まだこんなにも遠い。
伏見は小さく舌を鳴らし、それでも出されたカシスソーダに再び手を伸ばした。
子供扱いをされた、そんな理不尽な怒りを抱えていたとて、作ってくれたものを残すことは出来なかったし、文句を言うことも出来なかった。
「………ごちそう、さまです」
氷とレモンだけを残して、グラスの中身を飲み干す。
冷たい飲み物を飲んでいたはずなのに、身体の芯が少しだけ熱かった。
恐らくこれが、アルコールを摂取するということなのだろう。
「……いくら、ですか」
今夜はもう、ここにいたくなかった。
情けない顔を、子供染みた八つ当たりを、不貞腐れた態度を、向けてしまいそうで。
だからポケットから財布を取り出してそう聞けば、やんわりと手で制された。
「今日は奢り。二十歳のお祝いに、ね」
カウンターの向こうで、女が微笑む。
伏見はいや、でも、としばらく躊躇したが、崩れない笑みを前に渋々財布を仕舞った。
その気遣いが、嬉しくないわけではない。
だが結局それもまた、対等ではない証に他ならない。
この差は埋まらないのだと、改めて現実を突き付けられた気分だった。
ぼそぼそと滑舌悪く礼を述べ、スツールを下りる。
そのまま背を向け、数歩歩いてドアノブに手を掛けたその時。
「ねえ、知ってる?」
不意に、背後から声を掛けられて伏見は振り返った。
カウンターの向こう、女が火のついていない煙草を手に伏見を見ている。
「なん、ですか」
呼び止められるという想定外の出来事に身構えた伏見に向かって、女は目を細めた。
「カクテルにはね、それぞれカクテル言葉があるの」
「カクテル言葉?………花言葉みたいなもんですか」
聞いたことがない、と伏見が首を傾げれば、女は小さく笑って頷いた。
伏見は当然、どのカクテルに何の意味が込められているのか、一つも知らない。
だから黙って続きを待ったが、女はあっさりとその話題を切り上げるようにライターを鳴らした。
「おやすみなさい」
薄い煙の向こうから暗に終わりを告げられ、伏見は納得のいかないまま店を後にした。
深夜の路地に、舌打ちが響く。
ここに来るまでの自身を思い出し、伏見は心底反吐が出そうだと鼻を鳴らした。
浮かれて、期待して、馬鹿みたいだ。
それでも、タンマツを取り出した。
最後に残された曖昧なメッセージの意味を調べるべく、検索バーに文字を打ち込む。
カクテル言葉 カシスソーダ
やがて、それらしいページを見つけて開いたそこに並んだ単語に、伏見は息を飲んだ。
「…………え………、」
カッと、全身が熱くなる。
これは、アルコールのせいなどではない。
伏見はタンマツをきつく握り締め、その場にしゃがみ込んだ。
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