それは、偶然と見せかけて
bookmark


「大丈夫か、」

突然目の前に現れた、その人は。
そう言って、アメジストみたいに綺麗な瞳で私の顔を覗き込んだ。



金曜日、時刻は多分23時半を回っていた。
仕事帰りの満員電車。
どこの会社も忘年会ラッシュなのだろう。
ただでさえ人混みで空気が淀んでいるというのに、そこにさらに混じるアルコールの臭い。
掴まる場所すらないほど混み合った車内で、気持ち悪さを我慢しながら立っていた。

電車が途中駅で止まり、今にも溢れそうな車輌にさらに人が乗り込んで来る。
後ろから掛かる大きな力に流され、車内の中ほどまで無理矢理押し込められた。
前後左右を圧迫され、息が詰まる。
何とか身動ぎし、少しでも楽な体勢を探した。

自宅の最寄り駅は、次の次だ。
主要駅を繋ぐこの快速は、駅と駅との間が15分はある。
あと30分、そう思うと一日中立ちっぱなしだった足がパンプスの中で悲鳴を上げた。

家に帰ったら、すぐにお風呂に入って寝てしまおう。
そんなことを考えながら吊り広告を眺めていると、不意に目の前に立っている男の人の様子がおかしいことに気付いた。
何度もぶつかってくるなと思って顔を見れば、どうやら立ったまま舟を漕いでいるらしい。
つり革を握る手を何度も滑らせては再び掴む、という動作を繰り返している。
頭が何度も前後に揺れ、今にも倒れ込んできそうだった。

電車の揺れに合わせて、かくん、と前に揺れた男の人の顔が至近距離に迫り、私は必死で仰け反った。
生憎、すぐ後ろには人がいて下がることが出来ない。
左右も人に囲まれており、逃げ場がなかった。
目の前で半開きになった唇から漂う、アルコールの臭い。

お願いだからこれ以上近付かないで、と。
必死に顔を背けた、その時だった。

突然、私と男の人の顔との間に割り込んだ黒。
それは、コートの袖、つまり誰かの腕だった。
驚く間もなく、次の瞬間、その腕の持ち主は私と男の人との間を強引に引き離した。

「大丈夫か、」

降ってきた、低い声。
びっくりして見上げた先に、恐ろしく整った顔があった。

「あ………、」

助けてくれたのだと気付くのに、少し時間がかかった。
眉間に皺を寄せて気遣わしげに私を見下ろしたその人は、綺麗な紫紺の目をしていた。
お礼を言おうとしたその時、電車が大きく揺れ、私は踏ん張りきれずによろめいてしまう。
それを受け止めてくれたのは、その人の肩口だった。

「す、すみませ……っ」

慌てて距離を取ろうとしたけれど、背後から押されて身動きが取れない。
そんな私の頭上から、再び声が降ってきた。

「そのまま凭れてろ」

その言葉に甘えてはいけないと思っても、結局動くことなんて出来なくて。
私はそのまま、誰かも分からない男の人の肩に凭れ掛かった。

「次の駅まであと少しだ。それまで辛抱してくれ」

明らかに、迷惑をかけているのは私の方なのに。
その人は、私を気遣う言葉をかけてくれる。
私は何も言えず、小さく頷いた。


鼓動が、速かった。
さっきまで、半分寝かかった男の人との距離の近さに、あんなにも不快感と恐怖を抱いていたのに。
いま、この人に完全に密着した状態は、なぜかちっとも嫌じゃなくて。
申し訳なさと恥ずかしさ、そして奇妙な胸の高鳴りがあった。

やがて駅で電車が止まり、人が降りていく。
人波が動いたその隙に、その人は私をドアの脇に誘導し、角に背を向ける形で立たせてくれた。
そして、他の人から守るように、私の前に立ってくれる。
圧迫感から解放され、私はほっと息を吐いた。

再び動き出した電車の中、ようやく落ち着いてその人を見上げれば、紫紺の瞳は真っ直ぐに私を見ていて。

「すまねえ、不躾だったな」

困ったように苦笑したその表情に、心臓が跳ねた。

「いえっ、あの、本当にありがとうございます」

小声でお礼を言えば、別に大したことじゃねえよ、と。
その人は唇の端を歪めた。
まるで当たり前のことをしたと言わんばかりの口調に、優しい人なのだな、と感心していれば。

「………だが、そうだな、」

その人が、ゆっくりと言葉を続けた。

「もしあんたが、俺に感謝してくれるってんなら、」

ふ、と。
音もなく縮まった距離。
次の瞬間、耳元に囁かれた言葉。

すぐさま離れていくその顔を見つめながら、私はそっと唇を開いた。



あんたの名前を、教えちゃくんねえか。




それは、偶然と見せかけて
- ずっと、その姿を追っていた -







prev|next

[Back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -