あの手この手のひら


「相手に子供が出来たんだ。だから別れて欲しい」

映画やドラマならまだしも、現実世界でまさか自分自身にそんな言葉を浴びせられるとは。付き合って2年。同棲して3年共に過ごした恋人。将来を誓い合った訳では無い。だけど何となくこの人と結婚するんだろうな、なんて考えていた矢先に突然の別れを突き付けられて。怒るでも泣くでも責めるわけでもなくぼんやりと彼を見つめる事しか出来なかった私の姿を見て、彼は承諾を得たと勝手に解釈したらしい。翌日には彼の私物は無くなっていて無駄に広いベッドの中で漸く声を上げて泣いた。

溜め込んでいた有給を翌日からぶち込んで、家に篭もり始めて3日目。けたたましいチャイムの音で目が覚める。時計を見ると時刻はとうに昼過ぎを指していた。なんて自堕落な生活をしているのか…自分に嫌気が刺すけれど今はどうしても動く気力がない。ボサボサの髪の毛を手櫛で梳かして溜息をつく。その間も鳴り止まないチャイムの音にイライラし始めてきた私は態と足音を大きくして玄関に向かった。相手は分かってる、事前に連絡もなくこんな容赦のない訪問をしてくる奴は1人しかいない。鍵を開けると同時に向こう側から扉を開けられる。そこでチェーンを掛けていなかった事に気付いて後悔した。

「やぁ。聞いたよ名前、振られたんだって?」

「……何で一々傷を抉るかなぁ」

この人の頭脳なら、いや一般人からしても今一番触れられたくない話題であろう事は気付くはずだ。それでも開口一番その話をする辺り、本当に配慮に欠けていると思わざるを得ない。まぁそれは今に限った事ではないけど。彼、江戸川乱歩は私の昔からの顔馴染みであり、歳上だけれど弟のような存在だ。乱歩はさっさと靴を脱ぎ奥の部屋へと足を踏み入れる。正直今は放っておいて欲しいのだが…言ったところで素直に聞き入れる性格でもないのは承知している。諦めて乱歩の後を追った。私のお気に入りのクッションを抱いてベッドに腰かける乱歩に深い溜息が出そうになったのを飲み込んで、少し離れた床に腰を下ろした。

「…それで。態々何の用?」

「人伝に君が恋人と別れたって聞いてさ、やっぱり落ち込んでるみたいだね」

「落ち込まない方がおかしいと思うけど。それで?励ましにでも来てくれたって事?」

「残念だけど、僕は君が思ってる程優しい人間じゃない」

笑みを浮かべてはいるが声音はいつもの茶化しているようなものではない。何故かじとりと背中に冷や汗が伝った、この人は何を考えているのだろうか、いつもと違う雰囲気に口を噤む。クッションを放り投げて私との距離を徐々に縮めていく乱歩に後退ろうとするが私のすぐ後ろは壁で完全に逃げ道を失ってしまった。

「僕はずっとこの日を待ってた」

「え…?」

「5年前からずっとね。5年も待つなんて我ながらどうかしてるよ。彼奴から名前を奪い取る事も簡単に出来たんだけどさ、名前が彼奴を好きな気持ちだけは流石に如何にも出来ないし。でもこうなるって分かってたから」

「何言って…!ん、!」

後頭部に回された手の平、腰に回された腕。乱歩からの口付けに逃れる術は無く唯貪りつくように口内を荒らされる。私とそんなに体格は変わらない筈なのに身体を引き剥がそうとしてもビクともしなかった。段々力が抜けてきて乱歩の胸に置いていた手が力なく床に落ちるのと同時にちゅ、と音を立てて唇が離れる。もう私の思考は完全に停止していて、加えて朦朧とする意識に文句の一つも言えないのが悔しい。

「好きだよ。名前」

愛おしそうに名前を呼ばれるのが。優しく私を抱き締める腕が暖かいのが腹立たしい。なんで、どうして。いきなりこんな事されて。何で私の胸はこんなに高鳴っているのか。反則だ、こんなの

「…うるさい、ばか」

精一杯の反抗。だけど耳まで真っ赤に染った私を見ずともきっと彼には伝わってしまっているんだろう。羞恥から逃げるように乱歩の肩に顔を埋める私に乱歩がくすりと笑った。


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