▼special thanks:水筒(setting)




イヴは目覚めなかった。もう幾分経ったろう。子供の傍で煙草を吸うわけにもいかず、溜め息をつく。この小さな少女を抱え、逃げ込むのに必死で気づかなかったけれど、ふと体重の軽さを思い出して実感できるくらいの時間は経過したと思う。厳密には、よくわからない。歪みきった美術館に時計なんてものはないし、そもそも時刻という概念など無さそうである。いや、まさか、自分達の時間の感覚まで狂っているとしたら?身震いをする。たしかに、自我が少しずつ壊れていく音が止まないのだ。はやく外に出たい。はやく出なければならない。べつに、外の世界で待っている人がいるわけじゃないけれど、ここで野垂れ死ぬつもりだって毛頭ない。そう意気込んで、様々な恐怖と戦った。でも、脱出の手掛かりはなく、体力はなくなる一方。体力が尽きればはイヴのように精神までも削られ、倒れてしまうだろう。ほんとうにここから出られるのだろうか…。
考えるのはやめよう。気をしっかり持たねば。諦めたらそれまでだ。それにしても、まだイヴは目を覚まさない。ショックで倒れると、こんなに長い時間意識を失うものなのか。他に考えられること。大きな怪我をしたわけではないし、やはり精神的な疲れ、とか。この子が起きたら、もっと疲れさせないようにさせなくては。いくらイヴがしっかりものとはいえ、アタシのほうがずうっと年上なのに、アタシってそんなに頼りがいのない大人なのかしら。そんなことを思えば、ふと頭に留まる言葉。頼りがい……ずっと昔に出会った、年上の頼りがいのある大人を思い出した。あの人は、どうなったのだろう。予期せぬ懐かしさに憧れと思い出を描きながら、苦しそうな寝息を立てる少女に黒い皮のジャケットをそっとかけ直した。











ずっとむかしに会った男の子を見かけた。当時の面影はあまりなく、出会ったときよりも背丈がぐんと伸び、小さな女の子を連れていたけれど、あの深い紫の縮れ毛はあたしが撫でたそれにちがいない。豹変した美術館のなか、怯えながら蹲って泣いている16歳くらいの男の子。あたしは「だいじょうぶ?」と声をかけ、その頭を撫でたのだ。ここは危険だから、と手を引けば怖ず怖ずと立ち上がりうしろからついてくる。その時もう既に私よりも身長が高く、思えば昔から背は高かったのだ。間違いない。ギャリーだ。パパになったのか。あたしはその男性を追った。










名前も知らない。夢の中だったのかもしれない。でも、とてもきれいなひとだったと思う。その人は無個性たちをうまく撒くと、慣れた様子でちいさな小部屋に自分を連れ込んだ。

「あなた、名前は?」

年上の、それも女の人と、しかも初対面で話す機会はあまりなかったので、緊張した。咄嗟に敬語で「ギャリーです」と答えた。

「いくつ?」
「14です」
「あら背が大きいのね」

16歳くらいだと思った。その人は、感心したように目を丸くし、からからと笑った。なんと返せば良いか言葉を選んでいると、ぐっと距離を詰められた。そのまま頬っぺたに手がくっつく。かおが、ちかい。熱を持った頬を隠したくて、手を押し退けうつ向く。それでも折れないその人は、無理矢理覗き込むように目を合わせるとひとこと。

「ほんとだ、まだお子さまね」

かっ、と頭に血が登った。だってそんなこと、あなたに関係なくて、ましてや今それどころじゃない。このひとは危機感がないのか。こっちは幾度も危険な目に遭ってきたんだ。あなたも同じじゃないのか。無償に腹が立った。同じ境遇の仲間に出会えたかと思ったら、どうでもいい雑談の末、ちょっとからかわれた。何故腹が立ったのかまとめると、なんだか取るに足らない呆れた原因だった。大したことはない。こんなことで苛立つなんて、疲れているのかもしれない。そりゃあ、そうさ。こんな偏屈な場所で何時間も彷徨って、やっと出会えたのがこんな偏屈な女ならば。言い訳を並べ終わるまえに、疲労感に託つけて女の胸ぐらに掴みかかり怒鳴っていた。

「あなた怖くないんですか、不安じゃないんですか、こんなところを、ずっと歩きまわって……ちょっと、何してるんですか」

女のひとは、胸ぐらを掴まれたままじぶんのスカートのポケットを弄りはじめた。動じる様子も、苦しがる様子もない。なんて図太いんだろう。責め立てているはずのこちらが、戸惑うほどだ。思わず力を緩める。このひと、ちょっとおかしい。脳の発達障害なのか。それとも、美術館という名の異世界に、気が触れてしまったのか。焦る頭で考えを巡らせていると、いきなり口になにかを押し込まれた。

「えい」
「むが、う、えっ、ちょっと、なに」
「だから、糖分」

驚きと共に感じたのはレモン味。鼻がちょっとつんとしたけど、すぐに心地よい甘さに変わった。おいしい。安堵というか、呆れというか、戸惑いというか。とりあえず変な女の胸元から手を離す。するとその人は、またもうひとつ黄色い包みをカサカサさせながら笑った。

「まずはリラックス。ちょっと落ち着きなさいな。いっしょに考えて、いっしょに出ましょう!」

あ、この人といっしょなら出られる。何故かそう確信した。焦燥がすうっと引いていって、それを見とったのだろうか、女のひとはもっと笑顔になった。意固地な自分を思わず頷かせる、その笑顔がどれだけ頼もしかったことか。
イヴにかけたジャケットのポケットから黄色い飴玉を取り出す。まだ食べてもいないのに鼻がつんとした。
そういえばあの人はどうしたんだろう。いや、知っているはずだ。あれ?どうしたんだっけ。












ギャリーを追いかけていて、気付いたことがある。ギャリー、大きすぎやしないか。以前から背が高いのは知ってる。でも、それにしたって大きすぎる。というか身長がどうの、という感じではない。まるで大きな巨人になったみたいだ。摩訶不思議な美術館にはアリスのワンダーランドの模倣のような、食べると体が大きくなるきのこでもあるのだろうか。あり得ない話ではない。むしろ体が大きくなるだけの仕掛けなら可愛いものだ。そして、それからもうひとつ。わたしがどんなに駆けても駆けてもギャリーに追い付かないのだ。歩幅が違いすぎるのもあるかもしれない。呼び止めようとして名前を呼んでも、聞こえている様子はない。ギャリーの耳がいけないのか、あたしの声に問題があるのかはわからないが、体が大きくなった相乗としてギャリーに何らかの異変が起きたと考えるのが普通だ。ただ、絶対におかしいのは、あたしが言葉を掛けたとき、ギャリーは決まって壁面を見て青褪めること。タイミングはいつも同時だ。美術館の仕掛けだとしても、なんだかおかしい。「ギャリー待って」「いっしょに逃げよう」「どうして無視するの」「ねえギャリーったら」「ギャリー」やっぱり、なんだかおかしい。








気味の悪い青い人形に追いかけられた。なんでアタシばっかりこんなに執拗に追い掛け回すのよ。絵の具の瓶のなかにそのまま浸したような青色の肌、寄せ集めを縫い合わせたようなぼろぼろの服、取れかけたボタンの目玉。なにより、まるでこいつが話をしているかのように壁に浮き出る文字が気味が悪くて仕方がない。なんでアタシがいいの?なんでアタシをここに引き止めようとするの?こんなのに気に入られるようなこと、した覚えはない。あまりにも頭にきたので思い切り蹴とばした覚えならあるし、ほかにも色々この美術館の悪趣味な造形品を壊した。苛立つアタシを見るたび、イヴが不安そうな顔をしていたのは知っている。でも毎回、思わずかっとなって攻撃してしまうのだ。「ちょっと落ち着きなさいな」あの人のことばが蘇る。あの女性に憧れ、美術館を脱出したあともいつしかあの人の真似ばかりするようになっていた。言葉遣い、教養、物腰の柔らかさ。あの人のような大人になりたくて、そればかり基準にして生きてきた。残念なことに、それでも気性の荒さは抑えられないようだけど。
でもそりゃあそうよね。こんなところをずっと彷徨い続けてたら、だれだってイライラいしゃうわよね。とにかく早く出ればいい。そのほうが精神衛生的にもずっといい。そうだ、アタシは一度ここから出られたんだから、そのときみたいにすればいい。あのときはどうやって出た?あの人がいて、あの人。あの人はどうなった?いっしょに星が降る階段を下りて、おかしな蝶がとんでる町にいった。そうして、そうして…。ねえ、どうしよう、アタシ思い出しちゃったかもしれない。あの人、そうよ、あの人とは出口の目の前ではぐれてしまったんだわ。幼児が描いたクレヨンの落書きみたいな青い家で。

「先に行っててギャリー!あたし大切なようじを思い出したから!大丈夫よ、すぐに追いかけるわ!」

境界の絵画の前でずっと待ってたけど出てこなかった。つまり、あのひとはまだこの美術館のなかにいる?ヤダ、タイヘン!!探しにいかなくちゃ!

「先に行っててイヴ!アタシ大切な用事を思い出したから!ダイジョウブよ、すぐにおいかけるわ!」





おしまい





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