ちいさい頃から、わたしはおかしな夢をみる。いつも同じ場所にいて、いつも同じことをし、いつも同じように目覚める。その夢のはなしをしよう。星色の夜、わたしはアルハンブラの赤茶色い広間の真ん中にいて、女の人が白いビロウドの上に優雅に座っている。アラブの才女シェヘラザード。ちょうどそんな感じの。幾度も研磨を重ねたルビーみたいな赤い目。ゆるい楔のように束ねられた真っ黒の長い髪。それ以外は幾何学模様のアラベスクに隠されていて見えない。わたしはいつも決まってそのひとの正面に腰を下ろす。するとそのひとは、どこか中性的な声を響かせて砂漠の世界のお伽噺をわたしに話して聞かせるのだ。歌うように、紡ぐように、しかしただ第三者として語り継ぐように。お伽噺は毎回異なる内容で、あるときはシンドバッドの冒険だったし、アリババだとかアラジンだとか、やはり何処かで聞き覚えのある物語ばかり。一日一話、夜が明けるまで声は止まない。しかし会話はしたことがない。ただ物語が淡々と綴られ、それが終わるころ、わたしは目覚める。そういう夢。

それは23歳になった今もまだ続いていた。夢のなかのシェヘラザードはいつまでも美しい少女のまま。でも、幼かったわたしは今や大企業の社畜となり下がり、朝な夕な働き続けている。お伽噺のとくべつな登場人物のように冒険をするわけではなく、残業に泣き、付き合いの飲みの憂さ晴らしに飲み会をする、極々一般的なOLに。それでも、そんな毎日に不満はないし、それなりにがんばってるし、お金にも困らないから別にふつうに楽しい生活を送っていた。一週間に一度か二度、ゆっくり眠れた日に見られるあの夢も、わたしのささやかな楽しみであった。







ある夜のこと。夜のアルハンブラの宮殿で、いつものようにお伽噺に耳を傾ける。いつものようにアルトの響きがおわりの色を孕む。「……こうして、アリババは綺麗なお姫さま幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。」さあ、これでお話はおしまい。夢もおしまい。あと数秒もすればわたしはいつものように目を覚まし、いつものように目覚ましを止め起き上がる。そうすればまたいつもの毎日がはじまる。昨日頼まれたコピーをやらなくちゃ。ぼんやりと思った。もう朝だね。その瞬間、いつものシェヘラザードが突然飛び上がったかと思うと、宙でくるりと上下を変え、逆立ちになって片手で着地した。纏っていた織物だけがはらりと落ちる。シェヘラザードの落ちる時間が止まる。よくみると、無重力になった逆さまのからだは決して女のひとのそれではなかった。赤い目は宝石のように鈍く光り、真っ黒の髪はふわりと弧を描く。でも彼はシェヘラザードなんかじゃなかった。


「で?おまえどーすんの?」


逆さまの口を開けば明確だ。お伽噺の穏やかな語り口調とは打って代わって、乱暴で粗雑な言葉遣い。その上、ビッと人差し指で促されたが、わたしは驚きと戸惑いのせいで返事をできずにいた。いつもの夢とはちがう夢?あなたはだれ?これは夢?


「ばっかみてえ」


戸惑うわたしの沈黙に、痺れを切らした少年の片手が地を捨てる。吐き捨てるような言葉の語尾と、目覚まし時計のけたたましい音が重なった。大きくバランスを崩した少年が傾き、アルハンブラは意思を持つ煙のようにしゅるんと消え、黒の世界。目蓋を開くと、わたしは天井を見ていた。コピーをやらなくちゃ。






その日わたしは、生まれて初めて夢占いをした。友達がよく当たると大騒ぎしていた占い師は、哲学にも心理学にも疎いわたしにはよくわからない言葉を並べ、もっともなアドバイスをした(実際、そのアドバイス以外はなにを言っているのかわからなかった)。
「よくない人間だと思ったら、関わらないこと」

小学生の交通安全教室みたいな言葉を復唱してから、わたしは眠りについた。









満天の星空と赤い城。お伽噺は今日もおわりに差し掛かる。シェヘラザードは穏やかで、やはり淑やかで、流れるようにはなし続けていた。よかった。あの悪魔のような少年は、別の夢だったのだ。わたしは安心して旋律に身を委ねた。「……こうして、シンドバッドは誰からも慕われる王となり、美しい国を築き上げましたとさ。めでたし、めでたし。」






「お前こんなんでいーわけ?」




幻想的な流動がぶつりと断たれる。ぱっと顔を上げると、目の前で胡座を掻いているのはシェヘラザードではなかった。またおまえか。



「あなただあれ」

「おれはジュダル」



夢のなかで誰かと会話したのは初めてで、ちょっと驚いた。でも、言葉が通じるならはなしがはやい。わたしは質問したいことが沢山あるのだ。



「どうして、」

「おれマギだからさあ、おれはお前とデッカイことがやりたいの、お前ホントに才能あるんだよ、おれとお前が組んだら、ゼッタイ楽しいに決まってる、なんたっておれもお前もトクベツなんだから」



わたしが言葉をまとめる暇も与えず、ジュダルなのかマギなのかわからない名前の少年は喋り続けた。どうやら勧誘されているようだ。何にかはわからない。とにかくデッカイことらしい。わたしは夢のなかでナンパをされている。現実でされたことのないナンパを。わたしはそんなにナンパをされたかったのだろうか。そうかな、そうかもしれない。でも今ならわかる。ナンパには夢も憧れも必要ない。



「わたし、君がなにゆってるのかわかんない」

「わかんなくてもいーって、おれについてくれば」

「どうでもいい、知らない」



わたしはハッキリと跳ね退けた。興味がないわけではないが、夢のなかでまで頼まれごとをするのはごめんだ。いよいよ夜の景色が朝の光でぼやけてくきた。もうすぐ目を覚ますことができる。



「お前、こんなんでいいの?このまま死んでも満足なわけ?」


わたしの一生はわたしで決めます。余計なお世話。占い師に言われた通り、関わらない。だいたい、あなたと関わりってまで人生をおかしくしようとは思わないし、なによりわたし、はなし聞かないタイプのガキは大嫌いなの。



「ばいばい」




ぷつん。














その日は早めに仕事を切り上げた。突然、友達の父親が亡くなったらしい。そのお通夜に行くためだった。父親を亡くしたのは、学生の頃からの友達で、今でもよく会うキャビンアテンダントの親友である。縫製業に就いているもうひとりの親友と合流したが、彼女はすでに涙目だった。

会場にいっても友達には会えなかった。遺族は別の控室にいると、葬儀スタッフにきいた。黒い箙の大人のひとたちからは、お葬式のにおいがした。死んでゆくにおい。おわるいのちのかおり。待合室では席が足りなくなるといけないので、わたしたちはうしろのほうに足っていた。ただ、立っていた。足がなにかに絡まって身体中がうごかなかった。力を入れているでもないのに、右手は左手をぎゅっと捕まえていて、目玉すら、あまり動かすきにはなれなかった。視界のはじっこで、喪にくるまったおじさんやおばさんがゆらゆらしていた。うしろに立っている友達が幾度か鼻をすすったのが聞こえたが、振り向いて笑いかけてやるのもできなかった。ただぼんやりと立っていた。その子のお父さんが航空機の学校の先生だったものだから、パイロットみたいな服をきたひとも何人かいた。袖に白い線の3本入った紺の制服をきて、みんな下を向いていた。このひとたちは本当に空を飛ぶ仕事のひとたちだろうかと思った。そのくせ、そんな成りをしているせいか、葬式には似合わない気がした。


「お焼香は一回で済ませてください」


わたしたちは、そんな看板の向こうで何列かになってお焼香の順番を待っていた。順番きたらまず遺族に一礼、関係者に一礼。お焼香は一回。離れたところに座っている友達の顔は青白く、泣きそうというより何を見ているでもなく、灰色の目をして俯いていた。目は合わなかった。それはそうだ。父親は突然の事故で亡くなったんだから。航空機の事故。未だ受け入れがたいに違いない。そのときわたしの脳裏にあの言葉が過った。「お前、こんなんでいいの?このまま死んでも満足なわけ?」








「人間なんかさあ、いつ死ぬかわかんねえし、もったいねえよ、お前」



今日のジュダルは昨日より饒舌だった。わたしの心の鬱々しさが増す。するとジュダルはより愉快そう表情を浮かべ雄弁に語り始め、わたしはまたそれに沈殿してゆく。こいつはまるで、ひとのこころの影に巣くう蝙蝠だ。ジュダルの声は、言葉としての意味を孕まず、ただ不快な超音波みたいに宮殿の上のほうに昇っていった。聞くことも、考えることも、悪循環。そうは思っても、なんだか怒鳴って黙らせる気にはなれない。突っ伏して泣きたいきぶんでもない。ただぼんやりとしていたい。



「ほら、んなボーッとしてるこの瞬間にも、お前死んじゃうかもしんないんだぜ?」


「おれと組めばいーのに」


「そうすりゃ、いつ死んでも後悔しないよーな、ちょうユーイギな時間を過ごせるし」


「っつーかまず、そんな簡単に死なねえから」


「なあ〜、マジもったいねえって〜」


「お前にはこんなとこより、もっとちげーとこのが合ってる」


「だから行こう」


「話したろ?シンドバッドとか、アリババとか、アラジンの魔法のはなしとか」


「おれとお前が組めば、あいつらなんかメじゃない、サイコーの一説になれちゃうって」


「このままじゃお前、なんにもしねーでフツーに死ぬんだぜ」






いいもん。何にも起こさないで、普通に暮らしたいと思う。普通に働いて、普通に稼いで、ある程度になったら結婚して、子供産んで。その先はあんまり考えてないけど、わたしは空も飛ばず、洋服を作る知識も得ることなく死んでゆくんだと思う。ぽっかり空いた考え付かない空白の時間も、きっとふつうに埋まる。それで満足だ。でも、そう思う反面、普通じゃないことをあきらめていないわたしがいる。空を飛びたい。たくさん洋服をつくってみたい。お伽噺みたいな冒険がしたい。優しくてかっこいい王様と結婚したい。ずっと歳をとらなければいい。そう、それこそ夢みたいな。



「今夜がさいごのチャンスだぜ?物語はおしまい。この夢も、おれが出てくるのも、もうおわりなんだ。なあ〜〜、おれとお前、出会ってから今日でもう千一夜目なんだ、長い付き合いじゃん?もっとずーっといっしょにいよ、な?」


猫撫で声がわたしの肩に絡み付く。1000日もいっしょにいたのか。それならちょっと信用してもいいのかも。それに、どうせ夢なんだから、何を望んだってだれも構いやしないでしょ。わたしだって、もっとたのしーことしたい。たかが夢なのに、なんだか大きな渦ができそうな気がする。自分勝手な背徳感の心地好さに染まる海馬で、占い師の呪文が反響しはじめた。「ゆめゆめ触れることなかれ。赤い目の悪魔は夢うつつの境界などものともせず、あなたを迎えにやってくるから」



「意味わかんない。わたし哲学なんかわかんない」

「そんなもん知らなくても、この世のぜーんぶ、教えてやるよ」



ぎらぎら光るルビーの目が手招き。つられてわたしはゆっくり手を伸ばす。ゆめゆめ触れることなかれ。ゆめゆめ触れることなかれ。ジュダルがわたしの手首をぎゅっと掴む。ゆめゆめ、ゆめゆめ、ゆめゆめゆめゆめゆめゆめ、続きは忘れた。そんなことより爪を立てないで、なんて、どうでもいい言葉が浮かんでは消える。だってわたしは、千一夜目にして初めてジュダルに触れたのだ。なんだかとても気分がいい。

Alf layla wa layla ...

存在すら知らないはずのパフラヴィー語の綴りが、ぐるぐるとあたまを回っていた。






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