海とは、わたしにとってひどく恐ろしいものであった。水が苦手なのではないし、泳げないわけでもない。波の満ち引きが不安なのでも、海に住む生物が怖いわけでも。ただ、向こう岸の見えない恐怖が、広大な海を渡ることによって未知の変化を強いられる自分への恐怖が、わたしをこの町に足止めしていた。

ミナモシティは、潮風が心地よい海辺の町だった。美術館やコンテスト会場、大規模なショッピングセンターなど、ミナモならではの施設が人を呼び、華やかな賑わいをもたらしていた。しかし、一度海岸に出れば、波の音だけ響く静かな世界。白い砂の上に腰を下ろして、時折見かける小さな岩に寄りかかって海を見、星を見、息を吸う。その穏やかさがわたしを落ち着かせ、また、かえって焦燥を生んだ。わたしはこのままではいけないのに。そう思っては浜に出てはまた海を眺め、諦め、それを幾度か繰り返したころ、手持ちのマリルはボックスに預けたままになった。それでも、海岸に通うのだけはやめなかった。わたしはこの場所が好きだった。


わたしはポケモンリーグを目指してバッジを集めているトレーナーで、この町に来てからは宿を借りて過ごしている。でももうおこづかいが底をつくから、観光客気分はおしまい。ポケモンセンターに宿泊すれば、トレーナーとして自分と向き合わなくてはならない。わたしの目標、わたしの夢。海を渡らなければ、次のジムには辿り着けない。そもそも、わたしは何故こんなに怖がっているんだろう。思えば、わたしの旅は非常に順調だった。トントン拍子。順風満帆。失敗も挫折もなかった。トレーナーズスクールのみんながトレーナーになるのを諦めた程のツツジさんにも一回の挑戦で勝利して、その次も、また次も。わたしには怖いものなんかなかったはずなのに。


日が落ちると、わたしはまた無意識のうちに海岸にいた。寄せては引いてゆく波の音がわたしの思考を瞑想へと示唆する。わたしはもう。いや、まだわたしは。でもわたしは。いつものように浜に座り込み、いつものように自問自答。その時、ひとつだけいつもと違うものが目に入った。ちょっと向こうの高い岬に立つ、すらりとした青年。ちょうどわたしが目指す海の遠くの方を向いていた。表情はわからない。宝石色の赤い目だけがきらきらと煌めいて見えた。不思議な光だった。その目に引き寄せられたのか、わたしは思わず、岬まで駆けた。



「ぼくは、海がきらいだ」



背後に立つや否や、声が聞こえた。青年はこちらをちらりとも見ず、ずっと遠くを見据えていた。唐突な切り口にわたしは面食らったが、その間も言葉は続いた。



「僕は、空がすきだ。広くて遠くて、果てがない。だから、終わりがあるのに空の真似事をしている海なんて嫌いなんだ」



静かな声だった。



「僕は、ほんものになりたい」



わたしは何も言えず、ただ沈黙に身を任せた。何となく気まずくはなく、どこか知らない遠くの町を懐かしむような、ふわふわとして、それでいてしっとりとした、不思議な気持ちだった。向こう岸の見えない海はやはり青黒く、波打ち際だけが白く泡立ち、空には星がちらついていた。彼の言うことはわからなくもないが、よくわからない。わたしには、大した違いがあるようには見えなかったが、彼にはなにか譲れないものがあるのかもしれない。いったい、なんのほんものになりたいんだろう。


その日はどちらともなく海を去った。そして次の日も、また次の日も、わたしは彼の話をきいた。わたしが海岸へ通うのはいつものことで、それが岬になっただけだったので、たいして生活の変化があったわけではない。謂わば、連れが一人が増えただけなのだ。しかし、わたしの夕方から夜にかけての過ごし方はずいぶん華やかになったような気がした。



「僕は海がきらいで、空になりたい。でも、僕はにせものになることしかできない」



鬱々としたそれは、一概に華やかとは言えなかったが、わたしの感覚に色を挿すものであった。彼はずっとひとりごとのように話をし、わたしはそれをじっときいた。彼の話を聞くうちに、わたしの固く閉ざした何かが溶けてゆくような気がして、少し身軽になった気がした。わたしが抱え込んでいた重いものは、彼の悩みに比べれば、ほんとうにちっぽけなものに思えた。わたしの心はゆっくりと揺れ、なにかがぼろぼろと剥がれ落ちてゆく。



「僕は僕の意に反することしかできない」



わたしはポケモンリーグでチャンピオンになるのが夢だった。小さい頃からバトルの才能があると言われ、先生たちからみんなのお手本に指名されるのがいちばんの自慢だった。いつからか、みんなのお手本、みんなよりも一歩先を行くのが目標になっていた。でも、わたしは見ていた。わたしが海を渡れずにいる間、後ろから来ていたトレーナーたちが、ひとり、またひとり、なみのりを使い海原へ踏み出してゆくのを。それを眺めれば自分も渡れるかもしれない。勇気が出るかもしれないと思った。そのために、海の見える宿を借りた。今まで失敗なんてほとんどなかった。踏み出すのを躊躇うことも、誰かに追い越されたことも。もちろんそれ相応の努力もしたけれど、苦に思うことはなかった。みんなのいちばんでいたいという目標と、みんなのいちばんでいる優越感が、わたしの機動力となっていた。



「僕は空の模倣、にせものになることしかできないんだ」



そうだ。わたしも、みんなのいちばんという虚像にしかなれないのかもしれない。先生に誉められて、みんなに羨ましがられて、家族の自慢の種で。わたしにもそういう時期があったねと、過去の思い出にしてゆくことなんだ。忘れられてゆく、わたしの夢。しずかに、しずかに。消えてしまえば、わたしは違う道に向き直り、また前に進めるのだ。宿に帰って、またひとりクラスメイトの背中をぼんやりと見送りながら、わたしは決心した。














「わたし、家に帰るね」



伝えた言葉は、小さな音だったにも関わらず、波風の音に交わることはなかった。この浜で初めて声を発した。そして、彼と出会ってから初めて話し、初めて目があって、彼は初めて笑った。ずっと奥まで続いてゆくのに、影のささない赤い目がほころんだ。



「じゃあ僕も決めた」



その瞬間、わたしは低い空に赤く光る星をみた。彼は高い岬の先へと駆け出し、たった一瞬だけ瞬いて、落ちてゆく。彼の嫌いな海に。


「僕はせいいっぱいの僕になりたい!」


叫ぶような呟きと、どぼんという音。わたしは息を飲み、慌てて海面を覗き込んだ。着水した途端に、たくさんの白い泡。海の青に溶け込んでゆく深い紫。きらきらと輝く宝石色の赤が、息を止めるように沈んでゆくのが見えた。わたしは驚きの声をあげるのも忘れて見とれる。夜のはじまる色。おわるいのちの色。地球が真似した最初の宇宙。彼は星になったのだ。



「待って!」



わたしは叫んで反射的に駆け出す。岬を下り、浜に回る。彼は死んでしまったわけではないと、確信していた。でも彼はわたしの手が届かない遠くにいける気がした。もうこれ以上置いてきぼりにされるのは嫌だ。無意識に海原を見渡すと、夜色の海から現れたのはスターミーだった。わたしはその子を彼だ、と思った。ずっとわたしを心配していてくれたんだね。



「いこう」



点滅するコア。宝石色の赤がそういった気がして、わたしは星にしがみついた。



わたしは次の日、海を越えた。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -