ああ神様ごめんなさい。わたしはまたキスをしました。だってせがまれたのです。耳元で、息混じりの声で囁かれました。一度は駄目だと断りました。でも、振り払えないくらいしつこく纏わり付く甘ったるい空気。あれがどうもわたしは苦手なのです。早く終わらせたい。キスなんかくれてやって、「照れた」ということにして逃げ出したい。仕方なく目を閉じました。そしたら舌まで入ってきて、「また勝手に、」と押しのけようともしました。彼の力に敵うはずもありませんでしたが。だから不可抗力なのです。了承を得る際頷いたのは確かにわたしですが、もし首を横に振っていたとしてもきっとこうなっていたでしょう。いいわけさせてください、ごめんなさい。ほんとうはわたしだって、もうしたくはないのです。それをよそに、彼はわたしに「愛してる」と言いながら、頭を抱えます。「また呼んだら来て」と。わたしは計画通り、「照れた」ということにして無言で立ち去ります。彼に会うのは構わないのです。ただその度にキスや、それ以上をねだられるのはなんというか、恥ずかしいというよりも不快感。慣れないというよりも違和感。不純な気持ちになるはけではないのに後ろめたくもあります。残るのは乗せられた唇の感触と、自己嫌悪。ふだんは能天気である程度自信を持っていきてるわたしが、彼に会うととてつもなく自分が嫌いになるのです。こんな綺麗な夜空の下、光る星々を見るだけで自分の汚さが浮き立つようで上を見上げたくないと感じます。話をするのも、手を握るのもいやじゃないのに、キスとかセックスとか、そういうのは本当にいやになる。もう会いたくないと思う。


だってわたしは基山くんのことが、すきではないのです。




はじまりは、中学生のころでした。ちょっと気になっていた男の子に彼女ができてしまい、ちょっとした失恋を経験したわたしは、ちょっと脈がありそうな基山くんに告白をしました。男女のお付き合いというものに憧れていましたし、なにより失恋の原因になった男のより、うんと幸せになりたかった。彼のことを忘れたい、とか新しい恋をとか、そんな女らしい綺麗な感情は持ち合わせてはいませんでした。基山くんと仲良くしてるところを見せ付けたい。わたしを選ばなかったことを後悔させてやりたい。つまり腹いせです。彼のことが嫌いになったからそんなことをするのか、もう一度振り返ってほしいからなのか、そんなことは考えていませんでした。しかし、ひとことでは言い表せない、わたしの汚い感情からはじまったお付き合いなのは確かです。
基山くんは、わたしにとてもやさしくしてくれました。いろんなところにつれてってくれたし、一緒にいると楽しいというよりも、どきどきして恥ずかしくてうれしくって。甘酸っぱい恋の味ってこういうことか、なんて浸っていました。「恋に恋していた」んだと思います。でも、そういう関係は長くは続かないのが定石です。基山くんはサッカーが忙しくてわたしに構ってくれなくなりました。最初はさびしくって、メールも電話もできないのが辛くてひとりで泣いたこともあります。遠目で見ても、声はかけられない。彼に迷惑かけたくないとか、そういうのではなく。でもだんだん慣れてくるのです。強くなるのです。なんだ基山くんがいなくても普通に生活してるじゃない。なにをわたしは甘ったれているんだ。もとの、基山くんのいなかった生活にもどるだけじゃないか。基山くんに耽っていて見えなかったものが見えるようになってきました。いろんな人の、いろんな心。そのたびにわたしは成長しました。そしてある日、わたしの耳に入ってきた「ちょっと気になっていたあの男の子と彼女が別れた」といううわさ。その瞬間、つっかえていたものがぼろりと剥がれ落ちました。ああ、もういいんだ。おわりにしていいんだ。見せ付けて、わたしのほうが幸せだなんて思わなくていいんだ。汚い自分にさよならってしてもいいんだ。ひがんでばかりの自分がきらいでした。それを自制できないわがままさもきらいでした。わたしはもう、基山くんがいなくてもぜったい大丈夫。
基山くんと付き合う理由はもうなかった。

メールで送った「友達にもどろう」。返信は「別れよう」。基山くんを利用だけ利用して、結局それだけ。ごめんね、基山くん。それすらも送り返しはしませんでした。彼のことはもう、眼中にもなかったのです。でも、お付き合いしたことに後悔はありませんでした。それと同じように別れたことにも後悔はしませんでした。わたしはなにかを得て、なにかを失って、前進して、後退しました。なんでもいいけれど、とにかくとても心が軽くなりました。おわりを実感しました。

その四年後、高校生になって、はるなつあきふゆ、はるなつあきふゆを繰り返し、失恋も、失恋モドキも忘れていた卒業式の日。わたしは告白をされました。そのひとは四年前よりもっと前からすきだったと言いました。やっぱりずっとすきだったと言いました。そのひとは基山くんでした。
「俺はちゃんとすきだったよ」
わたしの手を取った基山くん。その手に呟いた彼の言葉は、わたしのあたまを貫通しました。みんな知っていたのです。基山くんは知っていた。それを知っててわたしと付き合ってくれた。恋人ごっこをしてくれた。わたしが基山くんのことすきじゃなくっても、見返すために彼を利用するような女でも、ずるくて汚いことをしても、こんなに時間がたっても。ねえ自分、きいてる?わたし。一生のうちで、こんなにわたしのこと愛してくれる人は他にいないと思う。こんなに思ってくれて、こんなに優しいひとを、わたしはもう裏切っちゃいけない。わたしがすきだろうが、すきじゃなかろうが。今度こそわたしはこのひとの気持ちに応えなきゃいけない。
わたしはまた、繰り返した。






…とまあ、そういうわけで、そのままずるずると引き延ばした関係は今に至ります。今度はわたしが受け止める番。だからもう彼を失望させるわけにはいかないのです。でも、こんなことをしていてわたしはまともな人間になれるのでしょうか。こんな背徳を続けていて、基山くんは満足なのでしょうか。基山くんは、以前付き合っていたときより強引になりました。最近は性欲を吐き出すためだけに会ってるんじゃないかとも思うくらい。それでもわたしは彼に会わなきゃいけない。あわせなきゃいけない。彼がわたしのことすきって言ってくれる間は。ほんとうは、もうこんなことはおわりにしたい。もう彼氏がほしいだけの、恋に恋した中学生は卒業したんだもの、さびしくなんかない。
夜の街路地をぶらぶらと歩きます。紳士的な基山くんは家まで送ってくれたがります。でも今日は、半ば飛び出したようなかたちで基山くんの部屋から帰ってきたのでひとりぼっち。ひとりぼっちがいちばん楽。だからひとりぼっちになりたがる。ひとりぼっちになると、また自己嫌悪。自分なにやってんだ自分なにやってんだ、そこへ基山くんからメールか電話。会いに行く。また飛び出す。ひとりになる。自己嫌悪。ああ、あくじゅんかん。
そのとき、うしろからがっと腕を掴まれました。強い力で、うでがぎりりと鳴りました。痛い、と顔をしかめました。基山くんじゃないのは一瞬でわかります。彼がいくら強引でも、わたしが痛いと感じることはしないからです。これはまずいかもしれない。だれかわからない恐怖には構わず、うしろは振り向きませんでした。無視して、腕がぶつかったということにして通り過ぎるのが得策だと思ったからです。なにより、こんな夜中に、女ひとりで静かな住宅街散歩していた自分が馬鹿だった。なんでさっさと帰って、ココアでも飲んで寝なかったんでしょう。そうすれば今頃は、すくなくとも安心安全なあったかい布団のなかで自己嫌悪に浸れたのに。無視して通り過ぎるのは無理な気がしました。腕はまだ握られています。暗くて顔なんかわからないから、わたしのような不細工でもナンパされるのか、なんて少し感動を覚えました。でもわたしは今すぐ家に帰りたいのです。もうこんなのはいやだ。踏んだり蹴ったりだ。いったい何の用だと思って居いると、腕を掴んでいるひとがやっとしゃべりました。

「おまえなんで泣いてんの」
「は?」

わたしは泣いているつもりはありませんでしたし、つまりはっきり言うと、なんというか、その、泣いてねえよ、うっぜえ、あたまきた。はあ?なにこいつ。なんだよ、なに、今流行ってんの?ちょっと下向いて暗がり歩いてる女の子に「泣いてるの?」って。はいはい、ちょう感傷的、ちょうセンチメンタル。ちょうわらえる。それで口説き落とすのね、あらまあ巧妙な手口が増えましたこと。だいたいなんでわたしが、こんな見ず知らずの人間におまえ呼ばわりされなきゃいけないの?まあ、見ず知らずの人間かどうかも、見てないからわかんないんですけど?腕痛いんですけど?ああもうぜんぶ腹が立つ。無視して通り過ぎんのやめた。八つ当たりなんてわかってんの。ひとこと、いや、もうひとことどころじゃなく百万の文句を言ってやりたい。いらいらしながら振り向いて、なんの用だこのチンカス禿げろ、くらいは言ってやろうとしたら、

「…ふどうくん…」
「よお」

わたしの目の前にはなんだか、どうやら見知った人間。髪の毛があるけど、こいつ不動くんだ。禿げろって言えばよかった。そう、何を隠そうあの日、わたしを選ばずに他の女の子と付き合って、わたしが基山くんと付き合ったら別れた、あの不動くんだ。本邦初公開、わたしの初めての失恋相手でぇす。うふふ、おいおいふざけんな。どの面さげてわたしの前にのこのこ出てこれるんだよ。そりゃあ、わたしの逆恨みかもしれないけどさ、なんにも知らないなんてそんなの、そんだけで罪だよ。うん、だから八つ当たりだって知ってるよ。でもわたしはこいつに見せ付けてやりたくて、基山くんにひどいことをした、以下略。よく考えてみれば、こいつのせいじゃないのか。ぜんぶぜんぶ、ぜんぶこいつのせい。ぜんぶこいつのせいで狂った。基山くんがわたしなんかに付き合ってっていうのも、わたしが柄にもない自己嫌悪のせいで夜間徘徊すんのもぜんぶ。むかつく。
「おひさしぶり不動くん、なんなの」
「泣くなよ、足踏むな」
「泣いてねえよ」
「あっそ、でも足踏むな」
「無理」
「じゃあ泣くな」
「だから泣いてないってば」
「じゃあなんで濡れてんの、おまえ目からよだれ垂らすわけ」
「はぁあ?いみがわかりませ」
ぴと。証明するために手をあてた頬が、風のせいで異様に冷たくて確かに濡れてた。ほうほう、わたしは目からもよだれが垂れるらしい。そんなにおなかすいてないんだけど。なーんて。っぁああ、なんでわたし泣いてんだよ。自覚したらよだれはぼろぼろ止まらなくなりましたとさ。悔しい。不動くんのせいにしても、基山くんのせいにしても、結局じぶんで決めたくせに。どうしたらいいかわかんないで泣くなんて、なんの意味もないくせに。ばっかじゃないの。ばっかじゃないの。うつむいたら、コンクリートの地面に黒い水玉模様を作るのが見えた。ちょっと寒くて、家に帰りたかった。不動くんがため息をついた。
「おまえさあ、たぶん基山に付け込まれてると思うんだわ」
ね、ふどうくん、きみはなんでわたしを呼び止めたのかな。泣いてたからかな。それとも、基山くんの悪口言うためかな。ああ、いらいらする。いらいらしても涙は、あっ、よだれはとまらない。
「なんでそんなこと言うの、それが言いたかったわけ?」
「ぜんぶ基山が言ってたから、それが言いたかったわけ」
ご丁寧に、質問と対応するように簡潔な回答をしてくれた不動くんは続けた。
基山が言ってた、って。僕に引け目があるから断れないってわかってた、って。そこに付け込んでお付き合いしてる、って。
そんなこと、ほんとに基山くんが言ってたなんて証明するものはなかった。でも、そうなんだって思った。そんなふうに思ってるって感じはしたし、そうであってほしかったから。
「だから、基山と別れて俺と付き合ったら?」
なぜそうなる。いまここに酒瓶があったら、迷わず頭を殴りつけてた。でも生憎酒瓶に代わるような手ごろな鈍器はちかくになかったし、ここは真夜中の、街灯がぽつんとついているだけの住宅街。ころしちゃったらすぐばれそうだし、駄目だな、なんてね、嘘だよ。あーあ、基山くんはずるい人だったんだ。それで、基山くんに付け込まれたわたしを付け込もうとしてる不動くんもずるいし、付け込まれるのはいやって言って別れられたらいいなぁなんておもってるわたしだって、相も変わらずずるい人間。みんなずるい。みんななにも変わんないじゃん。わたしが基山くんに愛されてるって思って裏切らないっていう思いも、ぜんぶかわいそうな自分に浸る自己満足。ずるい男ふたりに付け込まれて、かわいそうなわたし。断りきれなくて悩んでる、他人思いのやさしいわたし。かわいそう、かわいそう。これで気が済んだか。
「ふどうくん、ずるいね」
「ずるいよ」
「なんで今そんなこと言うの」
「今言うためにずっと前からおまえと基山をずるくしたからじゃね」

ああでもよかった、一番ずるいのは不動くんだ。


基山くんと付き合う理由はもうなかった。




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