「え」
「えっ」

二人揃って目を丸くして一時停止。背中に床。変な方向から重力がかかる。目の前には志摩くんの顔。
ねえ、わたしのこと、押し倒したのは君なのに、なんでそんなにびっくりしてるの。

「志、摩くん、だめだよ、なにしてるの」

不慮の事故なんかじゃない。急に熱っぽい声で名前を呼ばれて、なあにと返事をしようとしたら押さえ込まれたんだから。現代の若者の性が乱れてる、なんて聞くけど、まさかわたしがそうなるなんて思ってなかった。そりゃあ志摩くんとはお付き合いさせていただいてるわけだから、いつかもしかしたらこうなったりなんかしちゃうかもしれないけど、でも、わたしたちまだ学生だよ?生物的にも、社会的にも、お付き合いしてる期間的にも、まだだいぶはやいんじゃないかなあ。わたしの思考回路は、目の前で起こってることが人事みたいに冷たく回る。でも最善の解決方法が見つからない。だってやっぱり人事なんだもの。

「志摩くん」
「えっ」
「やめとこ」
「あ、あっあかん、やってしもた…うわああほんま堪忍して、ごめんなさい」

確信犯のくせにぱっとわたしを放すと、顔を真っ赤にして言い訳を重ねる。なんかやっぱり志摩くんらしいなあ、やっと起き上がることができたわたしは思わず笑った。そしてそこで気付いた。

あ、わたし息してなかった。






「神木さぁん、何度も頼んどるんやからぁそろそろメアド教えたってぇやぁ」
「は、メールなんかしないのに、どうして教える必要性があるわけ?お断りよ」

今日は出雲ちゃんか。そして失敗。いつもの浮気風景をぼんやり見つめながら、でも頭の中は昨日のことがぐるぐるまわっていた。わたしにはよくわかんないけど、男の人って急にああいうことしたくなっちゃうものなのかなあ。それとも志摩くんだけ?どっちにしろ、心配。わからないことって不安になるよね。だって、あの時わたしがだめって言わなければ、あの、なんていうか、その、そういうことをしてたわけでしょ?わたし、と、志摩くんが。なんかもう、もう、全然想像できない。一日置いて落ち着いたはずなのに、まだ人事みたい。そのくせほんとにそういうことになったら、頭ばっか冷静なような気がして、でもびっくりして、緊張して、息できなかった。体も動かなかった。それにね、どのタイミングだったか頭ごっちゃまぜでよくわっかんないけど、一瞬、ぐって力込められて、「え、」って思った。ああ、あの間抜けっぽい声出しちゃったときだったかしら。とにかくもうびっくりっていうか、志摩くんってこんな力が強かったんだって、なんとなく怖くなっちゃって。男女の差っていうか、もしわたしがだめって言っても、やだって言われたら、こりゃ逃げられないなって。知らなかったなあって、思ったんだよね。





「しえみちゃぁん、やっぱ着物もええけど、制服のがごっつええわぁ」
「ええっ、そ、そうかな、ありがとう!あっ、燐ー!」


今日はしえみちゃんか。そしてガンスルー。またいつもの浮気風景を見ながら、頭の中はやっぱりまだこの間のことでいっぱい。ぶくぶく。あのあと何度も謝られて、その都度ちょっとだけぎくしゃくしたけど、なにせ相手は志摩くんだ。にこにこされたらにこにこしちゃう。いっしょにいると楽しいのには変わらない。いつもの志摩くん。ピンク色で、飄々としてて、にこにこで。だけど、またああいうことされたらどうするんだろう。わたしはまた「だめだよ」って言うのかな。別に全然嫌なわけじゃなくて、ただちょっと怖いだけで、あんまり現実味がないだけで、こういう気持ちのままそういうことするのはちょっと、心配、なだけ、で…。でも、それで志摩くんのこと傷付けることになるのはいやだ。嫌われるのもいや。ぜったい。じゃあわたしは「いいよ」って言うのかな。でもちょっと待って、ねえ、これって流されてるっていうんじゃないのかな。わたしって軽い女なのかな。でも軽いっていうなら志摩くんだって、あれ、もしかして、あーゆーこと、
わたし以外の女の人にもしちゃうのかな。あんな声で名前呼んで、力込めて、押し倒しちゃうの、かな。や、やだ、まさかそんな、わたしって最低。何考えてるのよ。わたしは志摩くんの彼女なの。だからあーゆーことされるんであって……志摩くんって、彼女何人いるのかな。
「出雲ちゃんメアド教」「しえみちゃん制服ごっつ可愛」「霧隠先生ほんま」「坊、ここのナースのレベル高すぎとちゃいま」

わたしは志摩くんの、何番目の「すき」なのかな。





「志摩くん、別れよう」

志摩くんは、あの時みたいにびっくりした顔をしなかった。もしかすると、わたしの方がびっくりした顔だったかもしれない。口をついて出た言葉。女の人って、急にそういうこと言いたくなるのかな。そんなこと言ってどうするんだよ、自分のばかやろう。

「どないしはったん」

志摩くんはびっくりするどころか、わたしをなだめるような、困った顔で笑った。きっとわたしのことわかってるんだ。どうしてわたしがこんなこと言うのか、何が不満なのか、そういうの全部わかってて訊くんだ。ずるいよ、志摩くんは。わたしのなかの意地悪いわたしが大きくなっていく。どうしようもなく、志摩くんを困らせたくなる。わたし最高に最低。



「わたし、勝呂くんのことがすきになっちゃった」

今度はびっくりした顔だった。してやったり、って思った。やめてって思うのにもう口は止まらない。

「わたし、志摩くんの彼女です、って胸張って言えないし」
わたしばっかりこんなにすきで。

「どうせ志摩くんのいちばんにはなれないんでしょ」
いちばんになりたい。いちばんにしてほしいのに。

「だったら勝呂くんのいちばんのほうがいい、って」
わかんないもん、もうわかんない。

「だからもう、」
ずるいよ、志摩くんは。

「もう志摩くんのこと、すきじゃないから」
いちばんずるいのは、わたしだ。





ただぼんやりと町の中を歩いていた。落ち込んでるくせに、うれしいことがあったみたいな口元で。待ってる人なんかいないのに、待ち合わせに遅れないように歩いてるような足取りで。ばっかみたい。ばかみたいだよなあ、わたし。なにやってんだろうなあ。すれ違う人達がやけに幸せそうに見えて僻んだ。きっとわたしはだれかのいちばんになるどころか、こうやってすれ違っても気付いてもらえない、見てももらえないような人間なんだろうなあ。こんないっちょまえに嘘ばっか上手に吐いて、強がりなわたしなんて。足は重くて這うみたい。息は苦しくて詰まるみたい。なんでわたしばっかり、ちがう、なんでわたしばっか苦しいわけじゃないのわかってるくせに。ごめんね志摩くん、ごめんなさい。
工事中のブルーシートがぽたんぽたん、と音を立てて、
あれわたし泣いてないのに、ああ雨かと思った瞬間、ばけつをひっくり返したような水をかぶっていた。
足は重くて動かない。息は苦しくてはやくなる。両方止まってしまいそう、なんて

「阿呆、お前こないな雨の中何しとんのや」

ぐっと腕を引かれた。振り向くと、おっかない顔をした勝呂くんがいた。志摩くんじゃなかった。もし、志摩くんならこんなに強く手首掴んでくれるのかな。志摩くんなら、もっとやさしくトントンって肩叩いて笑うかな。志摩くんなら後ろから思いっきり飛びつくんじゃないかな。志摩くんなら、志摩くんなら

「なんだ、志摩くんじゃなくてよかった」

ほらまた嘘ついた。





そのままわたしは、偶然近くにあった喫茶店に連れて行かれた。ぶっきらぼうに、顔にタオルを押し付けられる。機嫌が悪そうな勝呂くんは、メロンソーダとコーヒー、なんて単語だけで注文するもんだから不運な店員さんはびくびくしながら引っ込んだ。お店の中には私たちだけ。勝呂くんちゃんとわたしがメロンソーダすきって言ったの覚えててくえたんだ。

「自分、何しとったんや」

わたしのメロンソーダがひとくち減って、勝呂くんのコーヒーカップがからっぽになった頃、相変わらず不機嫌なお向かいさんが然も不機嫌そうな声を出した。

「歩いてたの」
「止まっとった」
「疲れたの」

コーヒーのお替りをうかがうタイミングを逃したであろう店員さんが、少しの間うろうろしたあと、気まずそうに店の奥に入っていった。なんとなく、メロンソーダの中の溶けかけの氷を、からんからんとかき混ぜた。

「志摩くんから何かきいたの?」
「何も聞いとらんのや」
「じゃあ何もないから」
「何もないのに殴られてたまるかいな」

は?なんて間抜けな声が出るのを、無意識に抑え込んで顔をあげる。よく見ると、勝呂くんのほっぺが片方腫れてた。たしかに、いかにも殴られました、って感じで、でも殴られたって誰に?話の流れ的に志摩くんに?

「なんで」
「いくら坊でも許さへんよ、言うとったで。うちの彼女、唆さんといてくれはります、言われたんやけど」

そんな

「う」

もしかしてわたしが

「そ」

勝呂くんのことすきって言ったから?

「嘘やないやろ、これ見てみ」

恨めしげに左のほっぺを軽く抑える勝呂くん。どうしよう、これってわたしが勝呂くんに怪我させたってことになるのかな。っていうか殴ったりして志摩くん退学とかになったりしないよね。志摩くん、あんな温厚っぽい志摩くんでも人のこと殴ったりするんだ。知らなかった、わたしの知らないことばっかり。そういえば、知らないことばっかでわかんないことばっかりで、わたし志摩くんに別れようって口走っちゃったんだっけ。しかも勝呂くんの名前なんか出して、こんなふうに巻き込ませちゃって。ちゃんとお話しなきゃだめだよね。勝呂くんだったら嘘吐かないで、相談してもいかもしれない。わたしよりも志摩くんのことよく知ってるし、きっと頼りになるし。

「ご、ごめん、わたし志摩くんに勝呂くんのことすきだから別れてって、言っちゃって」
「え゛、はぁ?え…えっ」
「ちがうの!志摩くん浮気ばっかで、意地張っちゃって
つい、勢いで、ほんとは勝呂くんのことはこれっぽっちもすきでもなんでもなくて」
「…いや、それ本人の前で言うことやないで、言葉選び…」
「ごめんね、ほんっとうにごめん」

何の言葉をえらべばいいのかよくわからないけど、とりあえず謝る。勝呂くんはわたしがわかってないのをわかってるみたいで、呆れたようにため息を吐いた。

「せやし、俺かてこんな嘘つきで意地ばっか張りよって、ろくでもないことしか言えん女、願い下げやわ」

ぱちん。頭の中で何かがはじける音がした。勝呂くんなりの場の治め方。冗談めかした軽い悪口。この後に続くのは「ちょっと、それどういう意味よ!」という笑いながらの小突きあい。わかってるはずなのに、その言葉がわたしの頭をがつんと殴った。嘘つきなんて、意地ばっか張るなんて、ろくでもないことしか言えないなんて、そんなの自分がよくわかってる。でも、そんなふうにわざわざ言われたら惨めだよ。むかつくよ。くやしいよ。なんでわたしがこんなこと言われなきゃいけないの、なんて、そんなの自分が全部いけないのわかってるから、余計に腹立つよ。あつい。頭のなかだけあつい。このあっついの、どこに持っていけばいいの。
言い返す言葉よりも先に、手はメロンソーダのグラスを引っ掴んで、勝呂くんにぶちまける。そしてどこまでも鈍臭くて間抜けなわたしは、水滴で手を滑らせ、グラスごと勝呂くんに投げつけていた。

「あっ」

ごつんとぶつかって、がしゃんと割れる音。みどり色の勝呂くん。お店、誰もいなくてよかった。

「…っお前なあ!?」

こりゃ殴られるな。勝呂くんが覚悟したわたしの胸倉に掴み掛かったそのとき、わたしを庇うように視界に入ったピンクの

「ぴ、ぴん、く!?」
「人のことピンクー呼ぶのはやめとってえや」

志摩くんだった。なんで志摩くん、こんなとこにいるの。聞いてたの。そんなへらへらして、怒ってないの。落ち込んだりとかもしてないの。もうわっけわかんない!

「し、しまく」
「はいはい、話はだいたい聞かせてもろうてわかりました、俺ここでバイトしてました、最初から怒っとらんのです」

わたしが言わなくても、志摩くんはわたしのこと全部わかってる。でも今度は困らせたくならなかった。

「で、坊は俺と俺の彼女が暴行加えてほんますみませんでした、でもうちの子殴るのはやめてください」

嘘や、怒っとったやろと言い返す勝呂くんをしぶしぶ帰らせて、割れたグラスをてきぱきと片付け、お店の人にも説明をし、その場を丸く治めていく志摩くん。わたしは放心して立ち尽くすばかりで、志摩くんが行くで、というまでまたぼんやりしていた。
雨はもう止んでいて、お店の外は夕日で赤かった。小さな公園のベンチで小さな反省会をした。

「今日はもう上がらせてもらいましたさかいに、ちゃんと話しよ」
「ごめんなさい」
「俺も、心当たりがありすぎで罪悪感しか感じんのやから、おあいこ」

ピンチのときに現れて、あっという間に困難を解決していく。なんか志摩くんって王子様みたい、なんて、じぶん気持ちわっる。さっきまで志摩くんのばかやろう、自分のばかやろう、なんてひねくれてたくせに、調子良すぎでも。でもまあ、悪い気はしない。

「でも俺らはこれで仲直りしてラブラブランデブーになって一件落着やけど、明日行ったら、ちゃんと坊に謝らなあかんよ」
「はーい」

みどり色の勝呂くんを思い出してぷっと吹き出すと、わたしのことわかりきってる志摩くんもつられて笑った。真っ赤な夕日の道を、二人で手をつないで帰った。



明日は二人で怒られようか





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