ただ数学の教科書を取りに行っただけなのに露伴先生に邪険に扱われてからというもの、私は露伴先生の顔を思い出すだけでイラついていた。
友人にアルバイトのことを聞かれて奇声をあげたり、携帯電話を見るだけでムカムカしたり、挙句の果てには自分で数学の教科書に描いた露伴先生の似顔絵を見るのも嫌になり、真っ黒に塗りつぶしてやった。
こんなに誰かに対して怒るのは初めてだ。
もう先生なんて知らない!バイト代もいらないから今日でやめてやる!と決意した昼休みに、東方くんと広瀬くんに呼び出された。
東方くんとは最近不思議な縁があるなと呑気なことを考えながら一緒に屋上に行く。
屋上ということは、こないだのように誰にも聞かれたくないような話なのだろうか。
錆び付いたドアを開けて生温くなってきた風が吹く屋上に着いてすぐに、広瀬くんが「岸辺露伴に何かされなかった?」と私に問いかけた。
「何か…?」
「えっと、なんて言ったらいいのかなァ〜…」
「名字、昨日の夕方露伴の奴の家に行ったんだろ?その後に…体重が変に軽くなったりとか、思い出せないことがあるとか」
「…ないよ?」
露伴先生にはムカついているものの、特に変なことされた覚えはない。
私にとってはそれが普通なのに、東方くんと広瀬くんは不思議そうにしている。
「おかしいな…もしかして名字さんが普通の女の子だからサインだけ渡して返したとか…?」
「そんな事する奴か?ただのファンなら追い返しそうじゃねーかよォ…」
「あのぉ…、私は露伴先生のファンじゃないよ?露伴先生の家でアルバイトしてたの」
過去形で言ってやったのは今日でやめてやるからだ。
私の言葉を聞いた二人は目玉が飛び出るんじゃないかというくらい驚いた顔をして私を見る。
「マジにあんなところでアルバイトしてたのかァ!?あの変人のところで?」
「う、うん…あれ?露伴先生そんな変人かなぁ…?」
「変だよ!蜘蛛だって舐めるし、人の嘔吐しそうな顔をすぐスケッチしようとするし、大怪我してもネタがあるからってずっと絵を描いて…」
「ケガしてるの!?」
露伴先生が大怪我してるなんて初耳だ。
「どうなの!?大丈夫なの!?」と二人に迫れば命に別状はないしピンピンしてる、と言うがそんな大怪我と言われてなかなか信じる事ができない。
「え、えっと…どうしよう!そんなに骨とか折れてるかな、血とか…!そうだ!お、お見舞い…!」
もう兎に角露伴先生の無事を確かめなければと焦った私は、東方くんと広瀬くんに止められたのを振り切って屋上を飛び出した。
お金をおろしてないためピンチ気味なお財布の中身も気にせずに露伴先生の家までバスで向かったのだが、なんどインターホンを押しても人が出てくる気配がない。
窓からリビングを覗いても露伴先生の影は見当たらない。
「も、もしかして死んでる…!」
「そんな訳あるか」
「ぎゃあ!」
何時の間にか背後に立っていた露伴先生に頭を殴られた。
利き手には包帯をしていてあちこちに絆創膏やガーゼを当てていて見るからに痛々しいのだが、出会ってそうそうにお小言が始まったので拍子抜けしてしまう。
「元気…そうですね」
「仕事は休まなきゃならないがな。…ったく、何回電話しても何処かの誰かさんには繋がらないし、病院から帰って来てみれば死人扱いだ」
「うぐ…」
「それに今はまだ学校にいる時間じゃあないのか?この不良娘」
ぐちぐちと永遠に続きそうなお小言をぶつけられて、私の心配は一体なんだったのかと悲しくなってくる。
そう思った時にはもう涙がボロボロと零れ落ちてきていて、止めたくても止まらなかった。
「露伴先生のばかァ〜…うう…!もー知らない!もう嫌いぃ〜バイトもやめてやる…!」
周りの目も気にせずに大泣きする私にギョッとした露伴先生は、慌てて私を宥めようとしたが、そんな事で止まる涙ではなかった。
「とりあえず家に入るぞ名前」
「うう…、嫌です帰ります!」
「いいから来るんだ!」
「えっ、あ、嫌なのに足が…!」
離れようとどんなに頑張っても、勝手に足が露伴先生の家に向かって行く。
そのまま玄関を通りリビングのソファーの定位置まで来てしまった。
そして露伴先生も向かいあうようにテーブルを挟んでソファーに座る。
露伴先生は眉間にシワを寄せて難しい顔をしていて、一度深く深呼吸してから「…悪かった」と聞こえるか聞こえないかギリギリの小さな声で呟いた。
あの露伴先生が謝るなんて、と信じられない私はぽかんと間抜けな顔をしているに違いない。
「アルバイトは辞めさせないからな。まだ君の表情全てを描いてないし、…なにより」
「なにより…?」
「〜ッ、秘密だ秘密!兎に角、勝手に僕のそばから離れることは許さないからな!」
「…それ、告白みたい」
「こ、告白!?」
「…ふふふっ!今日の露伴先生、なんか変!」
いつもの余裕がなくなってるのがおかしくて、ついクッションを抱えて笑ってしまった。
露伴先生にてっきりまた何かどやされると思ったのだが、「…初めて僕の前で笑ったな」と言われてまた呆気に取られる。
ただ、露伴先生がそれで満足そうな顔をしていたので、私の悩みも怒りも、どうでもよくなってしまった。