ここ数日の、仕事と眠る前の考え事以外の記憶が殆どなかった。
週初めからどんどんと憂鬱になる朝を繰り返し、キリキリと痛む胃の訴えを無視して出社し、朝から晩まで働き詰め。
家に着く頃にはもう今日という日は3時間ほどしかなくて、夕飯と入浴で一息つけば、布団を被らねばならない時間になる。
睡眠に入るまでの十数分に、ただただ仕事と将来の不安だけを考えて、ふわっと眠りに落ち、そしてすぐに朝を迎える。
ただ淡々と生活をこなしていくだけの、まるで機械のような私を見兼ねたのか、恋人であるジャイロは、ただ「休め」と強く一言私に言い聞かせた。
「休めって簡単に言うけど、そう休みは簡単に増やせないよ」
当たり前のことを言ってやったつもりだが、ジャイロはそれを「おかしい」と言う。
でも、だって、と理由をどんどん挙げていくのにも効果はなく、私に暫く休みを取るように言い聞かせるのだ。
働かなければ、収入はなくなる。
それに、私はこのイタリアの地に働くためにやってきたのだ。
収入の不安や就労ビザの不安の重さを考えれば、休みが少なくとも毎日働いて過ごしていた方が何倍もマシだ。
それをなぜ、ジャイロは分かってくれないのだろう。
テーブルを挟んで沈黙が続く。
珍しく日曜に開いているバールはこんなにも賑やかなのに、私たちの周りだけはやけに静かだ。
その沈黙もプレッシャーになり、キリキリと左の脇腹が痛み出す。
私のことを分かってくれない人なんて、いらない。
そう思って別れを切り出そうと口を開きかけた時、ジャイロは「オレと結婚して仕事を辞めるか、そのまま身体まで壊すか選べ」と先に切り出した。
喉の奥まで出かかった言葉が、ひゅっと引っ込んで行く。
かけられた言葉を聞き逃しはしなかったが、こちらは上手く飲み込めない。
しかしジャイロの顔は至って真剣なものであり、この言葉が嘘であるならば、私はこれから先何も信用できないくらいだ。
「…待ってよ、そんな、急に」
「このタイミングでっていうのは、オレだって考えてなかった。本当ならもっとこう、ムードのある中でって決めてたのによ…。このままじゃ、お前が倒れそうだったから」
「だからって、もっと言い方があるじゃ、ない…」
ボロっと大粒の涙が零れおちる。
気持ちと身体がちぐはぐなのか、どう気持ちを切り替えようとも涙が止まることはなく、ジャイロに誤解されたくなくて「違うの、違うの」と何度も繰り返す。
なんだかみっともない、こんなの私じゃない。
ジャイロは腕を伸ばして涙を拭う私の手を取り、テーブルの上に置く。
そして自分の手に付けていたファッション用の指輪を、私の薬指にそっと嵌めた。
私には大きすぎるサイズで、少し手を動かしただけでゆるゆると指の付け根と関節を行き来する。
「強がるところも、真面目なところも、オレは好きだ。けど、今の名前は見てらんねーよ。絶対に不自由はさせないし、もちろん愛してる。だからオレと結婚して、もう少し自分のことを大事にしろ」
その言葉には強制力があった。
私はこの言葉に逆らう術を持っていない。
日曜のバールは、そんな私たちのことを無視するかのように、まだ騒がしいままだ。