間書き@
*間書き*@
この作品は私が今から五年前(2003)に鉛筆の落書きマンガで作ったネタでした
その時期は映画「アンドリューNDR114」(1999)や「A.I.」(2001)を観ていて思った「自ら動く機械」について考えていた頃でした
「A.I.」…"母親"を永遠に愛することをインプットされた子供型ロボ、デイヴィット
自分は人間であると強く信じ、自分の意志で動き感情的なそれはロボット三原則を超えていた。
デイヴィッドは正に人間の子供そのものであり新たな可能性に研究者は喜ぶ。
しかしデイヴィットは見てしまう
自分によく似たロボットが量産に吊り下げられた研究室を…
梱包用のパッケージには
『あなたのデイヴィット』
自分がロボットであると知ってしまうのである…
↑今制作中の話は上記にかなり近いもになるかもしれませんね…
作画から少しして
「I Robot-アイ・ロボット」(2004)が上映
ある科学者の死亡事故から始まる、ロボット三原則をプログラムされなかった特別なロボットとロボットが嫌いな刑事のSFアクション映画
この刑事のロボット嫌いは「ゆうずうの利かなさ」が理由。
(だったかな?)
ロボットは優先順位に感情は伴いません
常にプログラムに即し、それ覆ることはありません
例えば人名救急時、「死にそうな子供」と「助かりそうな大人」を見つけても"助かる確率の高い方を優先する"ようプログラムされていれば子供を躊躇せず切り捨てることになります
一方人間は感情や気持ちに左右されるため万人が同じ選択をするわけではなく、時には矛盾を生み出すこともあります
そこにはプログラムにない別の選択があり、新たな可能性を生みます
ロボットは自らの意志で学習することは出来ません
無機物に意志・感情は存在しないから…事前に組み込まれたもの、後から追加して与え"られた"動きしかできません
人は膨大な情報量を持って生きています。
"あ"の字を書くだけでも、脳の想起から始まり、ペンを持つ指、動かす手、腕などを使い、幾つもの動き・課程を踏まなければいけません
これらを人は普段、ほぼ無意識にこなしているのです。
(経験を積み重ねた結果)
もし、人間の学習容量がロボットにも許容可能なら、プログラムに支配されていることは同じでも、その膨大な情報によって多様な動きが生まれ、人間に近いものになるのではないか
そんな夢物語を私は描いてみたいと思ったのです
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