振り上げられる手
自分を取り囲む影
音をたてる鎖
忘れたハズなのに
忘れたい、のに
『縋り縋って、おやすみ』
有るはずの物が無かったり、無いはずの物が有ったり。普段と違う事が起きると、人は誰しも不安になる。"Evil"の最高責任者であるフロストも、例外では無かった。
何かが違う、だが何が違う?部屋を見渡してその違いを探すが、その原因は分からない。ふー、と息を吐き出しネクタイを緩めるが、やはり落ち着かない。時計を見ると、二本の針は午前五時を指している。夜間勤務の多い"Evil"の組員は、それぞれ帰宅している頃だろう。そこでふと、思い出した。有るはずの、"者"がない。いつもならこの時間にこの部屋に来て、そこのソファに寝転がり夢を見ている"者"が、今日は姿を見せていなかった。
「………またか」
溜め息を吐いて席を立つ。"いない者"の正体は分かっている。ただ、その居場所に心当たりは無い。これからその"いない者"を探して"Evil"本部内を歩き回る訳だが、心当たりが無い為、どこに行けばいいのか分からない。だからといって、何もしないという選択肢は、フロストの中には存在していなかった。このまま部屋にいても、いつもと違う違和感に悩まされ眠れなくなるだけだ。只でさえ眠れないのに、それだけは勘弁してもらいたい。廊下に出ると、夜特有のひんやりとした空気がフロストの体を舐めた。上着を着てこなかった事を少し後悔したが、そのまま暗い廊下を進む。
(さてと、どこにいる…?)
宛もなく本社を歩き回っていても埒があかないと、一先ずは此処から一番近い武器庫へと向かった。だが、そこには生憎誰も居ない。一度名を呼んでみたが、やはり返事は無かった。溜め息を吐いて踵を返し、次は医務室にでも行ってみようとした所、カシャンと何かが爪先に当たった。しゃがんでそれを拾い上げると、それは見覚えのあるゴーグル。もう一度武器庫内を見回しゴーグルの持ち主を探すが、やはりその影は見当たらなかった。
医務室に向かって、ゴーグルを片手に廊下を進む。エレベーターのボタンを押そうと手を上げた刹那、フロストの耳に物音が届いた。その音は廊下の先にあるシャワールームから聞こえてくる。カツン、と踵を返し、シャワールームへと目的地を変更した。
やはり音の出所はこの部屋であった。磨りガラスで区切られた無数のシャワールームの一つから、音は聞こえてくる。フロストは用心をしつつ、シャワー音のする一画を覗き込んだ。
「……ここにいたのか」
いなくなっていた"者"を見つけ、安堵の溜め息を一つ。シャワーの冷水に打たれ、膝を抱え込んでいるミミックは未だフロストの存在に気付いていないらしく、顔を膝の間に埋めている。シャワーのノズルを捻り水を止め、
「おい、ミミック」
名を呼んで肩に手を置いた。が、その手はパシンと振り払われる。
「…ミミック」
こんな事は初めてでは無い。むしろ今まで何回も経験して来ているはずだが、いざとなるとやはり対応に困った。目の前にしゃがみ込み、また名を呼ぼうと口を開くが、ミミックが何かぶつぶつと呟いているのに気付き口を閉じる。
「……ごめン、なサイ。ごめンなさイ……ッ」
何度も繰り返されるのは謝罪の言葉。誰かに繰り返している訳では無い。敢えて言うなれば、それは、脳の端の、未だミミックが幼かった頃の記憶。日常茶飯事の虐待。明日さえ来なければ、そう何度も願っていた。
「ミミック、ミミック」
フロストはカタカタと震える冷え切った肩を掴み、届く様願いながら名を呼んだ。ゆっくりと目線を上げた瞳は赤く揺れ、フロストの向こう側を見据えている。
「…俺は…何もしてナイ…俺は、何も…」
ふと、ミミックの体の震えが止まる。そしてその瞳に浮かんだのは、恐怖ではなく、底無しの、怒り。
「……はな、せッ、嫌だ!嫌ダ!殺してヤル!全員、殺シテヤル!」
「ミミック、落ち着け!」
がむしゃらに腕を振りまわし暴れるミミックを落ち着かせようと肩を押さえつける。
が、
「……っ」
腕に鋭い痛み。幼い頃と比べ幾分か成長し尖った牙が皮膚に食い込み、微かに赤が滲んでいた。痛みに眉根を寄せつつも、フロストはミミックを払い退けようとはしない。
「ミミック」
武器庫で拾ったゴーグルを差し出し、ただ一度、名を呼んだ。ミミックはハッとしたようにフロストの腕から口を離した。目に浮かんでいた憎悪の色は消えている。
「……だ、ンな……?」
驚いた様に名を呼んで目を見開く。途端に、その瞳が揺らいだ。
「旦那ァ……っ」
顔を歪めながら、その存在を確かめる様にフロストへ縋る。やはりそれも、フロストは払い退けようとはせず、黙ってそれを迎え入れた。
「落ち着いたか?」
「……ン」
「大丈夫だ」
「うン」
「お前は一人じゃない」
「うン」
「いつでもこうやって、頼れば良い」
「……う…ン…」
「……なんだ、また泣いてるのか?泣き虫な奴だな」
「だッて…旦那が…ッ」
『優しいから』
紡がれた言葉に、フロストは自嘲じみた笑いを漏らした。只の殺し屋に、そんな言葉は勿体無い、と。
「…っ、…ヒ、ッく…」
耳元での止まないしゃくり声を聞きながら、背中をあやす様に叩いてやる。やがてそのしゃくり声は、規則的な呼吸へと変わった。その呼吸を聞きながら、呆れた様に笑みを漏らす。
寂しさに堪えきれなくなれば人を求め涙を流し、その温もりを思い出せば、安心してまた涙を流す。そして安心の中で夢を視れば、あの不安は忘れてしまっているのだ。それはまるで、あの頃のままで。
「変わらないな、お前も、俺も」
幾度も頭を撫でてやり、今なら少し眠れるかもしれない、と静かに目を閉じた。
『縋り縋って、おやすみ』 Fin.
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