どんどんと、沈んでいるような感覚だった。辺りは海底の様に真っ暗闇で、誰もいない。先程まで聞こえていたあの声は、いつの間にかぴたりと囁く事をやめていた。もがこうとも、手足が動かない。助けを呼ぼうとも、声が出なかった。
 ふと、気付けば己の足は地面を踏みしめていた。地面とは言っても、足元は相変わらず暗闇だ。辺りを見回すが、誰もいない。と思ったのだが、

『こんにちは、ミシェル』

 声がして、振り返る。さっきまでいなかった男が、そこにいた。目元は長い前髪に隠れて見えないが、口元はうっすらと微笑んでいる。ミシェルはそれを、何故か不気味だと感じた。

『会えて嬉しいよ、ここには人があまり来ないから』

 男は笑みを浮かべたまま話し続ける。ミシェルは動こうとしたが、瞬きをするので精一杯だった。

『ここは見ての通り真っ暗で、何もない。境目でも、地獄でもない。もっともっと、もっと深い所。僕はここで独りぼっちなんだ』

 男が近付いて来る。男が一歩踏み出す度に、ジャラ、ジャラ、と鎖の音が響いた。男はミシェルの左肩を掴み、クスクスと笑う。

『上の世界は楽しそうだね、僕もいつか戻りたいな』

 その時だった。体が再び浮上を始める、そんな感覚。元の世界に戻れるのかもしれない、そう感じた。だが、目の前の男が肩をぐいと引き、耳元で囁く。

『またね』

 今まで遊んでいた友達と別れ、また明日会おうという約束をする時の様な、寂しさと希望を孕んだ声だった。











「……ん…」

 ゆっくりと重い瞼を開ける。天井に吊るされた無数のランプの灯りが、ジンジンと目に染みた。その灯りを遮り、影がミシェルの顔を覗き込む。

「お、ミシェル、起きたか!」

 ヴィクスは満面の笑みを浮かべそう言うと、ミシェルの手首を掴み脈を測る。

「ん、何ともねぇな。気分はどうだ?今すぐ死にたいとか思ってねぇな?」
「はい…大丈夫です」
「なら良かった。境目に行っちまったら大抵の奴がネガティブになるか、魂が抜けちまうからな」

 体を起こしたミシェルの背中をぽんぽんと叩き、ヴィクスは立ち上がる。そしてそのまま奥の部屋へと入っていった。部屋を見回すと、クロウがこちらをじっと見ている。その左手には、青白い腕が握られていた。ぎょっとして右側の腕を見ると、ローブの袖がゆらゆらと揺れているだけだ。

「クロウ…それ、どうしたんですか…?」
「………」

 クロウはどう説明しようか暫し迷った様子だったが、千切れた腕を無造作にソファへ放り投げると、空いた手で空を切る仕草をした。どうやらナイト・ウォーカーに切り落とされてしまったらしい。ミシェルにそんな記憶はなく、更にはここに運ばれた記憶もなかった。

「ミシェル、やっと目が覚めたか」

 そこで、シェイドが外から帰ってきた。コートを脱ぎ、まじまじとミシェルを見つめるような素振りを見せる。

「何ともないな?」
「はい、大丈夫です」
「そうか。まだ境目に耐性がついていなかったせいで気を失ったんだろう」

 ゆっくり休め、とシェイドはクロウと共に奥の部屋に入っていった。未だに気だるさが残っている体をソファに横たえ、あの男の事を思い出す。


『僕はずっと、ここで独りぼっちだ』


 そう呟いた声は、助けを求めている様にも聞こえた。



『影を踏んだのは誰だ』 終

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