「し、失礼します…」

 階段と地下室、日常と非日常を分ける重厚な扉を、そっと控えめに開く。久々という事もあり、少し気まずかった。
 地下室の中で最初に目を引く大きな水槽、その中にはヴィクスがいたが、目を閉じ、一定の位置でゆらゆらと揺れている。どうやら眠っているらしい。メアがいつも寝転がり尾を揺らしているソファにその姿はなく、同じくクロウの姿も無かった。最後に目につくのは部屋の奥にどっしりと置かれたいかにも重そうなデスクで、その椅子にはシェイドが腰かけ、分厚い本のページを指でなぞっていた。ミシェルの気配に気付いたのか、そっと顔を上げると、小さく息を吐きだしたようだった。

「ミシェル、もう来ないのかと思っていたが」
「お久しぶりです。あの、先日は申し訳ありませんでした、逃げ出してしまって……」
「いや、きちんと説明をしていなかった俺の過失だ。あんな事を言われて、信じろ、受け入れろ、という方が無理だろう。それを分かっていなかった。感覚が麻痺しているようだな、俺も」

 少しばかり自嘲じみた笑みを浮かべ、シェイドはパタンと本を閉じる。そうだ、と思い出したように切り出した。

「そこのテーブルに書類が置いてあるだろう」
「書類…?あ、はい、置いてあります」
「それを見てみろ」
「僕が、ですか?」
「あぁ、それは、お前にとって良いニュースのはずだ」

 それだけ告げると、シェイドは立ち上がり、今まで読んでいた本を影の手で本棚へと戻し、そのまま本棚へと向きなおる。ミシェルは首をかしげながら、ソファに腰かけ、書類を広げてみた。茶色いファイルの中には、カルテと、なにかの報告書のようなものが入っていた。まずは報告書を見てみると、下に警察署の判が押されていることに気が付く。何かの一件を処理した時の報告書のようだ。内容は、とある日に一人の若い男がトラックに轢かれるという事故があったが、男は奇跡的にも軽傷で済み、トラックの運転手は飲酒運転の容疑で逮捕されたというものだった。もしかして、とカルテに目をうつすと、そこにクリップでとめられていた患者の顔を見て、ミシェルは息をのんだ。

「この人は……!」

 顔を見て、すぐにピンときた。あの日、ミシェルが”言葉”で傷つけてしまった、事故に合わせてしまった男だった。

「ぶ、無事だったんですね……!」
「あぁ、死んでいない。お前が自分の言葉のせいでその男が死んでしまったのではないかと危惧していたようだったが、お前の”言葉”は人を殺めない、絶対だ」
「あぁ、そうですか……よかった……」

 ほっと胸をなでおろし、思わず熱くなる目頭を押さえる。自分が事故を引き起こしてしまったのは間違いないが、ずっと胸に重くのしかかっていたものが、少し軽くなったような気がした。

「あの、どうして、こんな書類があるんですか?」
「俺はなにもしていない。全部ヴィクスが調べたようだ。あまり人前に出たがらないあいつだが、ギデオン刑事に頼みに行ったらしい。それから色々なルートでカルテも入手したようだが、集めるのに苦労したのだろう。今朝から今まで、ずっと眠っている」
「そうなんですか……ヴィクスが」

水槽の中で眠っているヴィクスに目をやる。彼が起きたらちゃんと、礼を言おう。

「ミシェル。その件以来、言葉は使ったか」
「……はい、昨夜、強盗に襲われた時に使いました」
「どう使った?」
「もうこれで最後にしろ、と言いました。そうしたら、強盗はあっさり退散して……」
「ふむ、なんとなくなら使い方が分かっているようだな。お前の言葉は神の代弁、"天使の言葉"だ。諭すような物言いをすれば、その言葉は間違いなく届く。逆に、怒りや憎しみの感情のままに発言すれば、相手を傷つける事となる」
「傷つける、とは、例えば……車に轢かれたり、ですか」
「そうだ。お前の言葉の力はまだ全て発揮できている訳ではない。その力を把握できぬまま使ってしまえば、取り返しのつかん事になる可能性もある」
「だから訓練が必要、という訳ですね」
「あぁ。少なくとも、ナイトウォーカーから自分の身を守れるようにはならんとな。今までの者と違い、お前は奴らから狙われる傾向にあるようだ、理由は分からんが……」
「身を守れるようにはなりたいです。どんな訓練を?」
「訓練、とは言っても何か特別な方法があるわけではない。必要なのは集中力だ。それと、いかに己の感情を操る事が出来るか」
「集中力と、感情の操作……」
「それを訓練するのに丁度良い相手がいる」
「誰です?」
「……クロウ、やれ」



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