(…ん?なんだろう、これ…)

 シャワーを浴びている時、ある事に気付き、ミシェルは鏡に顔を近づけた。左肩に、青痣がある。内出血かと思ったが、肩などぶつけた記憶はなく、痣を押しても痛くない。

 (寝ている間にぶつけたのかな…)

 そんな記憶はなかったが、大したことではないだろうと、気にしないことにした。





第三話『天使は人を殺めるか』





 ミシェルはこの日もいつものように、古本屋の地下へと立ち寄った。ドアを開け部屋を見渡す。一見誰もいないかのように見えたが、水槽の底から、ヴィクスが姿を現した。

「よぉ、調子はどうだ?」
「こんにちはヴィクス。調子は良いですよ。それにしても、また散らかってしまってますね・・・」

 部屋を見渡し、ミシェルはため息を吐いた。先日、ヴィクスと一緒に本の整理をしたのだが、今となっては床に本が山となってしまっている。

「あー、メアが本を出してそのまんまにしやがるからなぁ。たまーに読んでるみてぇだが、基本は枕にしてるぜ」
「ふふ、メアらしいですね。おや、これは・・・」

 ふと、本の山の中に見覚えのある背表紙を見つけ、ミシェルはそれを拾い上げた。厚みがある訳ではないが、大きなハードカバーの本だ。

「賛美歌の本、か」
「僕の家にも同じものがあります」
「へぇ。教会に行ったりもするのか?」
「えぇ、近くの小さな教会へよく行きます。なぜか落ち着くので・・・」

 本を開きながら、ミシェルはソファに腰掛けた。楽譜にひたすら歌詞が添えられたページを、少しずつめくっていく。どの歌も、楽譜を眺めるだけでメロディを口ずさむことができた。無意識のうちに、鼻歌から歌唱へと変わっていく。その歌声は、水槽の中にいるヴィクスへ届いた。分厚いガラスなどまるで無いかのように、自然と耳に流れ込んでくる旋律は心地よく、穏やかな気持ちになる。まるで、天国にいるかのような錯覚すら覚えた。
 そんな穏やかな雰囲気を、木っ端みじんにするかのように、扉が勢いよく開いた。部屋に飛び込んできたのは、びっしょりと汗をあいたメアだった。

「ちょっと!今歌ってたの誰!?」
「え?ぼ、僕ですが・・・」
「もうちょっとやめてよミシェル・・・階段で一人で死ぬかと思ったんだから!」

 地獄からきた悪魔が死ぬ、というのはおかしな話ではあるが、メアの額に浮かぶ汗を見る限り、苦しんだのは嘘ではないらしい。

「賛美歌を歌ったからでしょうか・・・?」
「おいおいメア、ミシェルの歌声ちゃんと聞いてたんだろ?あんなに綺麗な賛美歌はなかなか無ぇぜ」
「ヴィクスはこの世界の住人だからそう感じるんだ!悪魔と天使は仲が悪い訳じゃないけど、でもやっぱり天国のものは苦手なんだ、俺たち悪魔ってのは。ミシェルが歌うなら尚更だよ・・・」
「僕が?どうしてです?」
「だーかーらっ!ミシェルは"翼を持つ者"なの!天使なの!まだシェイドさんから聞いてない?」

 ミシェルには、メアの言っている事がどういうことなのか理解できなかった。今まで普通の生活を送ってきた、ただの人間のつもりでいた。そんな自分が”天使”?

「あ、あの、すみません・・・ちょっと理解に苦しむのですが・・・」
「うーん、厳密には天使そのものじゃなくて、天使の声を持ってるんだよ、ミシェルは。だから、ミシェルの歌う賛美歌は誰が歌うのよりも神聖だし、ミシェルに説得されたら誰もが安心しちゃうんだ」
「そしてその声は、感情に左右されやすい」

 メアの説明に続けて言いながら、奥の部屋からシェイドが姿を現した。分厚い本を広げ、ミシェルに手渡す。見ると、翼が六枚生えた、甲冑の上に赤と青の布をまとい剣を持った男の姿が描かれている。ミシェルはこの抽象画を、見たことがあった。

「・・・・・・大天使、ミカエル」
「"神に似たもの"、"守護天使"と呼ばれる天使だ。大天使の中でも最も位の高い天使とされている」
「えぇ、色々な本で読んだことがあります。ルシファーを倒し地獄へ送ったのも、ミカエルだとか」

 ここで一旦言葉を切り、チラリとメアを見る。ルシファーのくだりに対し反論があるようだったが、メアにしては珍しく、説明を遮ることはなく、出かかった言葉を飲み込んだ。

「ミカエルをフランス語読みすると、ミシェルになるのは知っていましたが、名前が一緒なだけかと思っていました。両親もカトリックなので・・・」
「ミシェルが"翼を持つもの"として生まれてくる事は決まっていた。恐らく、こういうことを運命というのだろう」

 淡々と、シェイドは言う。だが、説明されればされるほど、混乱するのと共に、そんなはずがない、と否定している自分もいた。自分がただの人間ではないうえに、大天使のミカエルだと言われても、理解できるはずがなかった。

「そんな・・・何かの間違いではないですか?僕が、そんな訳ないです・・・」
「必ず、なにか心当たりがあるはずだ。お前が発した言葉で、何か変わった事があるだろう」
「そんな事を言われて、も…」

 否定の言葉を口にしながらも、ミシェルの記憶には、確かに心当たりがあった。思えば、あれが全ての始まりだったのかもしれない。

「違います。あれは、僕のせいじゃない…僕のせいじゃ…」

 シェイド達に初めて会ったあの日、普通の日常に別れを告げることになったあの日、たしか自分の言葉が、1人の人間を交通事故に巻き込んだ。忘れることのない記憶が、確かにある。


 気づけば、ミシェルは地下室から逃げ出していた。



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