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いつからだろう。部屋がこんなにも広くて無機質なものになったのは。いつからだろう。利用する電車の路線が変わったのは。いつからだろう。真の唇が冷たく感じるようになったのは。離れた真の唇も私の唇もちっとも濡れていない。乾いたままだ。僅かに乾燥して切れた口端は痛々しく、だけどそれはどうやら治りかけみたいで。めくれかけた皮が気になってうっすらと血の滲む箇所に指先を這わせると、溜息にも似た吐息が一つ落ちてはいとも簡単にその行為も払われる。
いつからだろう。何も届かなくなってしまったのは。真に触れたいと熱を帯びた指先は、宛てを失い諦めては落ちた。目を閉じて熱いだけの真の舌を受け入れながら、爪先で未練がましく床を小さく掻いてみる。
たぶん私と真は、今日で終わる。別れ話なんて切り出す切っ掛けもなく、溶けるみたいに過ぎてしまう気がする。触れなきゃ伝わらないことは沢山あるはずなのに、触れなくても気付いてしまうことがイヤなほどある。


「…名前」
「な、に」
「お前、なんで泣いてんの。」


もういちいち、思い出させないでほしい。無機質だけど真の匂いがするこの部屋も、この部屋への帰り道も。忘れたフリをして同じホームで同じ時間の電車を待ったことも。情けなく溢れる涙の止め方も。ぜんぶぜんぶ忘れて楽になりたいのに。それさえ真は許してくれない。
ささくれだった心を必死に隠して隠して、治りかけたところを平気な顔で抉るのだ。ひどい、ひどいひどいひどい。前から解ってたはずなのに、どうして私はこんなに性格の悪い奴を好きになっちゃったの。そうだよ、好きなんだもん。どんなに性格が悪かろうがひどいことをされようが、私はこいつの事が好きなんだ。


「――…なんで泣いてんのかって、聞いてんだけど?」


床へと組み敷いた私に覆い被さったまま、真はどこか苛立ちを含んだ声音で手首を掴む。真の手の平は冷たくて、汗ばんで震えていた。ぎりぎりと力が籠もると同時に、真の節張った指が食い込んで痛い。それなのに、不思議とその痛みは不安ではなく安心感をもたらす。

「お前はオレと別れたいんだろ?だから今日、ここに来た。いつもは嫌がって来ないくせに。ご丁寧に甘い声で誘って、わざわざ傷付けられてりゃあ世話ねえな。」
「ちがう、ちがうよ…。」
「…違わねえだろ!」


ぶつけられた声は紛れもなく真のものなのに、私の知らない人間の声だった。真が声を荒げたところなんて、初めて見た。真の震える手の平の頼りなさも初めて知った。こんなに不安そうで泣きそうな怒った顔、真でもするんだね。ねえ、真も怖かったのかな。傷付いてたのかな。私だけが傷付いてるなんて勘違いしてて、


「ごめんね、真…。」


そっと真の頬を撫でると、暫くの間を置いて大きな手の平が添えられる。私の温度と真の温度が重なって交じり合うように、今まであんなにも怖がっていた臆病な自分が愛しいものと溶けていくような気がした。
いつからか私は真に釣り合うような彼女になろうと取り繕うのに必死で、真の顔色を窺う事ばかりに長けて、真と向き合う事から逃げていた。そんな私の変化も、真は少なからず感じ取っていたに違いない。そこから少しずつ少しずつ、私達は距離を置き始めた。お互いが傷付かないように、それでいて離れないように。
何もかもが伝わらない訳ではなかった。不安も苛立ちも、ちゃんと真には届いていたのだとようやく気付いて初めて心の底から後悔の渦が巻く。
不器用な私達は、これからも勝手に不安になって傷付いていくんだろう。これからはそんな痛みも不安も、2人で分け合っていきたい。きっとそれが私達の幸せなんだと思うから。戸惑うように伸びた腕が私の背中を撫でると、まるで加減を知らない子供のようにきつく抱き締めてくる。名前、と耳元で囁かれる声は掠れて鼓膜を塞いだ。


title/舌

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テーマ「人外ファンタジー」
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